木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第68回】時は金なり?

 新聞に目を通していたら、「昔懐かしいカラオケスナック」という文字が飛び込んできました。カラオケの好きな私は興味を持って、早速読んでみました。浅野素女さんという人の記事です。普段はフランス住まいだが、たまたま日本に滞在した時、友人にカラオケスナックに誘われたとのこと。友人はシャンソンを歌った。字幕に出る歌詞を見ている内に、浅野さんは改めてシャンソンの詩とフランス語の良さに気づいたという話です。

 成程そう言われてみると、カラオケの字幕には独特の良さがあります。私はシャンソンは唄えませんが、演歌やフォークは唄います。そして字幕に流れる歌詞に、「あぁこんな意味があったのか」と知ることがあります。何気なく聞いたり唄ったりしていては気づかない歌詞の意味と日本語の良さが、字幕の文字を通すことで分ることが、確かにあると思います。

 

 私もカラオケスナックに行きます。しかし月に1度くらいの割合です。その代わり家の中で、ひとりカラオケを小1時間ばかりします。パソコンのユーチューブを利用して、好きな歌手の演歌やフォークを選び、字幕を見ながら歌手の声になぞって唄います。習字でいうと、お手本の上に薄紙を敷き、そこに写る手本をなぞっていくのと似たようなやり方です。

 私にとってカラオケの一番良いところは、大きい声を出せることだと思っています。交友関係も少なく、日中のほとんどを家の中で過ごしている私は、あまり声を出すことがありません。年中顔を合わしている96歳の母親とは、そんなに喋ることもありません。ましてや歌を唄う時のような、大きい声では話しません。

 この大きい声を出すということが、精神衛生に良いようです。別に歌でなくても、大きい声であればいいのですが、そんな機会はありません。やはりカラオケだからこそ大声が出せるのです。また声を出すことは、のどと肺の筋トレになるし、誤嚥の防止にもなると言われています。

 

 次に良いのは、歌詞を覚えるということです。ある程度唄い続けると、自然と歌詞を覚えます。やがて字幕を見なくとも唄えるようになります。そうした曲が幾つも増えることで、呆け防止になるのではないかと思っています。暗記する、記憶することで、少しは頭の体操になるのではないでしょうか。私はそれを期待しています。

 次に良いのは、歌の世界に入ることで、ちょっと日常から離れる気分になることです。よく、歌は3分間のお芝居だと言われます。そこには自分とは全く違う人間模様が描かれています。3分間の歌の中で、自分とは違う感情、想いを味わうことが出来ます。この自分からちょっとでも離れられるということが、歌の持つ魅力です。

 

 ナチスアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、その過酷な状況の中でも生き残れた人は、身体の頑丈な人よりも、繊細な性質の人だったと聞いたことがあります。繊細な性質の人というのは、神に祈りを捧げる人であったり、ほんの僅かの休憩時間の間に、歌を唄い、そして聞いて楽しむ人々でした。収容所とは別の世界。神や宗教、芸術、音楽という、現実とは別の通路、チャンネルを持つことの出来た感受性の豊かさが、生きる力になったと言われています。本を読むことや映画、芝居を見ることにも通じることだと思います。

 カラオケからずいぶん大げさな話になってしまいましたが、とにかく日常にどっぷり浸かったままではいけないということです。狭い自分から脱け出して、ちょっと別な世界を覗いてみることです。読書や映画、音楽鑑賞、観劇という、どちらかというと受身な形と違って、自分で声を出して行動するという点で、また違った良さもあると思います。

 

 話は変わりますが、3月に大江健三郎さんと坂本龍一さんが亡くなりました。大江さんはノーベル文学賞を受けた作家です。私は何度かその作品にトライしてみましたが、どうしても理解できませんでした。私の頭には氏の文学は難しいのでした。坂本さんは世界的な作曲家と言われています。しかし演歌やフオーク好きな私には、その音楽を感受するだけの力がありませんでした。

 お二人は偉い方ですが、私には遠い人でした。しかし二人とも自然を愛し、原発に反対の声を上げる方でした。後始末も出来ず自然を汚して壊す、危険な原発に対し、先頭に立って「否!」と断言する力強い存在でした。名声の高いその方たちの発言はとても励みになりました。そうした方を続けて失ったことは、とても悲しく心細いことであります。

 

 そして死ということを考えさせられました。人間は死ぬ。いつか必ず死んでいくということです。そんなことは当たり前だと言われればそれまでですが、凡人の愚かさで、普段は忘れています。改めて自分を振り返ってみると、自分がお二人と余り年齢が違わないという事実に驚きました。私は今年の12月に76歳になります。坂本龍一さんは71歳で亡くなりました。あの美しい白髪から、もっと年長かと思っていましたが、私より5歳も年下なのでした。

 大江健三郎さんは、私よりひと回り上の88歳でした。しかし10年なんて直ぐに過ぎてしまいます。「いつか死ぬ」どころか、「いつ死ぬか分らない」のです。昔から「時は金なり」という言葉がありました。それに対して、そうではなく「時はいのちである」と、何かの本で読んだことがあります。

 若い頃はそれでもやはり、「時は金なり」だと思っていました。しかし老年の今になると分かります。本当に、「時はいのち」なのです。