木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。健康上の理由があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第98回】車椅子生活になりました

【入院中です‥‥】と報告してから、早いもので半年が経ってしまいました。その半年間、ずっと入院していました。まさかこんなに長く病院に居るとは思いもしませんでした。そして現在、自宅で車椅子生活を送っています。その経緯を簡単に述べたいと思います。

 8月28日に頸椎狭窄部位を手術しました。当初の予定では20日間ほどで退院し、1カ月後に腰椎狭窄部位を手術することになっていました。しかし頸椎狭窄部位の術後結果が思わしくなく、歩行がほとんど出来ない状態になりました。夜、就寝の床に着くと足首辺りが痛み、かなり強い薬を飲みました。左の掌に痺れも出てきました。主治医が言うには、それらは術後の神経が弱っているものであり、リハビリに励むことで改善するとのことでした。

 

 病院内のリハビリ訓練を受けました。しかしそれほどの効果はありませんでした。その内、病院に居られる期限期間が来ました。自宅に戻るか、もっとリハビリに重視した病院に移るか、それとも少し早いが腰椎狭窄部位手術をするかを選ばねばなりませんでした。私は腰椎狭窄部位手術を決めました。

 9月18日に手術しました。足首の痛みは少し薄らぎました。しかし自立歩行は出来ず、左の掌の痺れも続きました。主治医の言う通りリハビリ訓練をも続けましたが駄目でした。やがて又、入院期限期間が来ました。今度は自宅に戻るか、もっとリハビリに重視した病院に移るかの2拓です。私は後者を選びました。

 10月6日、リハビリに特化した病院に移りました。そこで約5カ月間過ごしました。リハビリのスタッフは一生懸命に指導訓練をしてくれました。しかし一歩も歩くことが出来ず、車椅子利用者となました。掌の痺れも両手に及び、箸を持つことも字を書くことも出来なくなりました。その頃介護保険の申請をしたのですが、要介護3の結果が出ました。

 やがて又入院期限期間が来ました。今度は自宅に戻るか老人ホーム施設に入るか、それとも再手術するかです。手術はもうこりごりです。施設もイヤです。

 

 ならば自宅しかありません。家で私を支えてくれるのは弟しか居りません。足も手も不自由な私の世話をするのは大変なことです。弟に相談すると、ともかくやってみようと言ってくれました。どうしても無理なら施設入りを考えてみようと。有難いことです。

 今年の2月23日、自宅に戻りました。部屋に介護ベッドやポータブルトイレを置き、車椅子生活が始まりました。出来ないことや不自由なこと、失敗したことが一杯あります。残念と思うことも沢山あります。足も手も不自由な状態で、家で暮らすことが実際どうゆうことなのか。初めてのことで試行錯誤の毎日です。

 以上が【入院中です‥‥】と書いてからの、その後の報告です。本音を申し上げれば、まるで夢を見ているみたいです。未だにこの状態を受け入れられていないのです。夢であったらと願っているのです。

【第97回】脊柱管狭窄症手術

 いよいよ脊柱管狭窄症手術の日が決まりました。8月7日でした。私の場合、頚椎と腰椎の2箇所を手術します。2箇所同時には出来ません。先ずは頚椎を治療し、1カ月後位に腰椎を手術することになりました。手術に先立って脊髄造影検査をしました。背中から針を刺して造影剤を注入し、狭窄状態を詳しく診るためとのこと。そのために2泊3日の検査入院をしました。

 この検査はかなり痛かったです。脊髄に造影剤を入れるという、今まで経験したことのない処置でした。針を刺され、造影剤が脊髄に入ったと思われる瞬間、思わず唸るほどの痛さが走りました。神経の中に異物が混入したという感じです。

 

 無事に検査が終わり7月24日に帰宅しました。その頃は歩くのがやっとという状態です。足裏が痺れふらふらするのです。早く頚椎を終えて、腰椎の手術を待ち望む思いです。

 8月5日になりました。明日入院して翌日に手術です。そのため入院前のコロナ検査を受けました。この病院では入院患者に必須の検査とのこと。鼻に検査棒を入れられます。かなり奥まで挿すのです。

 その後、整形外科窓口まで行くように言われました。行ってみると1枚の紙を渡されました。そこには後頭部の図が書かれており、耳の位置から下をバリカンで坊主刈りするように言われました。頚椎の手術をするためには必要な処理とのこと。頚椎の手術はこんなところから切るのかと驚きました。帰宅の途中に床屋に寄って、言われた通りに後頭部の耳の位置から下をバリカンで坊主刈りにしました。鏡で見ると、なんともみっともない頭です。とても人前に出せる格好ではありません。そのため外に出る時は帽子を被ることにしました。

 

 夕方、明日の入院に向けて、持参していく諸々を整理していました。20日間の入院となると、いろいろ持っていくものがあります。数日前から少しずつ準備しておいたのです。すると病院の主治医から電話がかかってきました。今日のコロナ検査で陽性の反応が出たというのです。従って10日間は様子をみなければならない。もちろん手術は中止ということでした。

 「自分がコロナに!」 思ってもみないことでした。しかも早く手術をしなければいけないこんな時に!あのコロナ騒ぎで大変な時にも、自分はいっさい関係なかった。予防接種も7回までやりました。あの頃から比べればコロナなど別の世界の話ではないか。なんでよりに寄って手術を目の前にして! 本当に足が痛いのです。つらいのですと主治医に訴えても、コロナ陽性反応が出た以上、どうすることも出来ないというのでした。地団駄を踏む思いというのはこういうことです。自分ではどうすることも出来ない、回りに振り回される悔しい思いです。

 ふと、思い当たることがありました。そう言えば、2泊3日の脊髄造影検査入院から帰ってから、痰がやたらに出ていたのです。咳も少しありました。風邪を引いたのかと思っていましたが、あれがコロナだったのか。だとしたら病院で感染したのです。なんという皮肉なことでしょう。

 

 10日間の待機期間を終えて主治医を訪ねました。結果的に手術日は8月28日となりました。予定より3週間遅れたのです。普通なら20日間位のズレはなんともありません。予定が狂うことはよくあることです。しかし身体の場合は別です。日毎に悪化していくのが分りました。

 例えば足裏ですが、脊柱管狭窄症の場合に足裏が痺れることはよくあります。今の状態は痺れとマヒがあるのです。移動するのに、杖を突いてやっと歩ける状態。足裏は歩く時に絶妙なバランスを取っているのですね。痺れとマヒがあるためにそのバランスが取れないのです。絶えず何かに掴まっていないとフラフラして倒れてしまいます。

 そして排尿障害も起こりました。オシッコが自分で出せないのです。カテーテルで自己導尿しています。自己導尿とは、尿道口から膀胱まで管を入れて強制的に排尿する処置です。19年前に直腸ガンの手術をした後、やはり排尿障害が起こりました。その時からカテーテルでの自己導尿は慣れています。

 現在、日中は普通に自分でオシッコが出せています。ただ、膀胱に濁った尿が残らないように就寝前1回だけ自己導尿をしていたのです。それが日中に自力で出せなくなってしまったのです。尿閉状態です。3週間の遅れがこんなにも悪方向に行くとは思いもしませんでした。不運としか言いようがありません。

 この木もれ陽ブログは月に1回の割合で書いています。普通なら次回は9月です。しかし8月28日から入院するので9月中に書けるかどうか分りません。そのため8月の2回目として今回書いた次第です。                      

 

【第96回】主治医を見つける難しさ

 第92回でも述べましたように、10年来の持病である腰部脊柱管狭窄症を手術しょうと決意したのが、今年の2月頃でした。同じ手術をするなら、やはり良い医師に執刀してもらいたいのが人情です。それまでに何冊か腰部脊柱管狭窄症に関する本を読んでいました。そしてこの先生ならという医師がいたのです。今まで診てもらっていた地元のN医師も手術を勧めてくれたのですが、私は紹介状を書いてもらい、その先生の脊椎外科を訪ねました。

 MRI検査が終わり、さていつ手術をしてくれるのかと、そのT医師に問いました。すると、「手術をしても余り効果は期待できない」という返事なのでした。症状が出てから10年も経っているので、神経は相当弱っている。そして弱った神経は元には戻らない。従って、「手術をしたとしてもそんなに症状は変わらない」というのでした。

 

 すっかり手術をする心積りでいたのに当てが外れた思いでした。本を読んで、この先生ならという医師に言われただけにショックでした。T医師が言われるには、「症状は症状として、歩けない訳ではないのだから、運動療法でこのまま持続していくのが良い」とのことでした。何十年というもの、脊柱管狭窄症を診てきて治療をし、新聞などでも高く評価報道されている医師の言葉です。ここは主治医となった先生に従うしかありません。

 そんな訳で、3月からストレッチ、リハビリを始めました。しかしなかなか変化はありません。果たしてこんなことをしていていいのだろうか? 本当に役に立つことなのだろうかと思うほど何の改善もないのです。しかし今はこの方法しかないのだと自分に言い聞かせて、続けてきました。

 

 4月末のことです。今度は肩甲骨や腕が痛くなったのです。我慢ギリギリの痛さでした。頚椎の脊柱管狭窄症が疑われました。ストレッチ、リハビリ担当の医師にMRI画像を頼みました。そして主治医であるT医師の診断を仰ぎました。

 結果は、「まだ手術をする段階ではない」という判断でした。私は腰のこともあるので、「神経が弱りきらない内に手術をした方が良いのではないか」と念を押したのですが、手術は必要ないと言うのです。痛み止めで様子を見ることになりました。

 そうしている内に5月の末になりました。頚椎の痛さは我慢できるほどにはなってきました。しかし腰部脊柱管狭窄症からきていた足の不自由さはもっと悪くなってきたのです。本当にこのまま手術をしないで大丈夫なのだろうかという不安が大きくなりました。私は元々診てもらっていた地元のN医師に、頚椎のMRI画像を診てもらいました。

 そのN医師の診断では、悪くなってきた足の不自由さは頚椎の脊柱管狭窄症から来ることもある。同じ脊柱管狭窄症でも頚椎の方がより重要であるという説明でした。私はN医師の元で手術をすることに決めました。

 

 思うに、2月からの半年間というものは一体なんだったのだろうか。主治医をT医師に変えたばかりに無駄な月日を送ってしまいました。振り返ると、初めてT医師を訪ねてから、T医師は実際に私の身体を診たことがないのに気づきました。足が痛いと言っても、肩甲骨や腕が痛いと訴えても、触診することがなかったのです。ただMRIの画像を見て、「手術の必要はない」と言っただけです。なぜ必要ないかの詳しい説明もありませんでした。これは私の患者としての聞き様が足りなかったということもあります。もっと突っ込んで説明を求めるべきでした。またストレッチ、リハビリへの経過観察や助言もありませんでした。

 しかし、医師と患者という立場では、やはり患者は弱いです。聞くにしても、それだけの専門知識もありません。その医師の著書を読んで、説明内容や治療に対する考え方に共鳴し納得したので、その言葉を鵜呑みにしてしまったということもあります。

 よく、良い医師を探しなさい。いい主治医を持ちなさいと言います。確かにそうです。しかし、では実際にどうやって良い医師を探し、いかにしていい主治医を持てばいいのでしょうか。例えばある病気に対して、何カ所の病院を訪ね回り、その中から自分に合った医師を探すなんてことは不可能です。私の場合、何冊か脊柱管狭窄症に関する本を読んで、この先生ならということで信じ、決めたのです。

 

 しかし考えてみれば、本などはどんなことでも書けてしまえるのです。本だけを読んでも、その医師の真の姿は分らないということです。新聞報道での評価も当てになりません。やはり実際に接し、話をしてみて、どんな診察をしてくれているのかを見極めるのが肝要だったのです。私の場合は、唯ただ盲従してしまったのが誤りでした。こんなことなら地元の病院で2月に手術をしてもらった方が良かったのです。本当に愚かでした。

 しかし後悔していても病いは治りません。今はN医師の執刀を受け、治療に専念することが、するべき一番のことです。以上、今回は良い主治医を見つけることの難しさを述べました。

【第95回】母の死んだ日

 先月の15日、私の母が亡くなりました。享年98歳でした。さすがに2年ほど前からはベッドに伏すことが多くなりました。それでも食事時には自分で箸を持ち、好きなビール(ノン・アルコールですが)を飲んでいました。6月8日の夕食には鰹やイカの刺身、煮物、サラダなどを楽しみました。

 ところが、翌日からは何も食べなくなりました。水も欲しがりません。仕方ないので点滴補給を頼みました。母は定期的に在宅医療を受けていました。その医師からは、身体がものを欲しがらなくなったことは、そろそろ時期が来たようだと言われました。 

 家族としては少しでも何か口にしてもらいたいと思い、栄養ドリンク(イノラス)や西瓜の汁を与えましたが、すぐに顔をしかめて嫌がるのでした。点滴を受け、少しは話が出来る状態でした。そうして1週間ばかり経ちました。

 

 15日、この日は点滴するのを休むことになっていたのです。ところが、朝になって母の下着とベッドが濡れているのに気づきました。調べると太腿に挿していた点滴の針管が外れて漏れていたのです。本来は点滴をしない筈でしたが、漏れていたので急きょ点滴をするように頼みました。午後一番に看護師が来てくれることになりました。母に、水を入れた吸飲みを口まで持っていったのですが、やはり飲んでくれません。

 昼食を終えた私は、たびたび母の様子を見に行きました。もう言葉もあまり発しません。表情もどこか虚ろな感じです。突然、母は両目を大きく見開き一点を見つめ、口元をグッと引き締めました。苦しいというのでなく、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどのハッキリとした表情でした。

 普通でない様子に、私は「お母さん、どうしたの? お母さん、どうしたの!」と声をかけました。返事はありません。目を閉じ、また開き、そして目をつぶり、首を傾げ、息を引き取りました。わずか数十秒間のことで、穏やかな最期でした。

 

 丁度その時です。点滴をするために看護師さんが来たのです。すぐにもう一人の看護師さんも来て、母をシャワーで清めてくれました。ケアマネジャーも駆けつけました。医師による死亡確認もあっという間に済みました。こんなにスムーズに事が運んだのも、点滴漏れがあったからです。なんという偶然でしようか。もし看護師さんがいなかったら、私は驚き慌てふためいて、冷静でいられなかったと思います。

 実際に死の間際に立ち会うというのは、なかなか機会が無いそうです。人は必ず死ぬということ。それを目の当たりに私は見ることが出来ました。これは母が私に与えてくれた、貴重なプレゼントだと思っています。

 19日の午前10時に、母は納棺師の元に運ばれて行きました。その間の丸4日間、母は自宅に安置されていました。暑いのでず~と冷房をかけていました。私は出来るだけ母の傍にいました。まるで眠っているような母。その4日間があったおかげで、私は心ゆくまで母とのお別れができました。 合掌 

【第94回】「あっち行くよ!」

 「あっち行くよ!」  日中の殆どをベッドに伏している母が、家族(息子である私と弟)に言うのです。何度も何度もそう言って頼むのです。

 「あっち」とは、すぐ隣にある部屋のことです。テーブルと椅子があり、そこで食事をする居間です。あとふた月で99歳にならんとする母は、自分では居間に行かれません。そこに行きたいので、移動させてほしいと、「あっち行くよ!」と頼むのです。

 食事時でもないのに、何故そんなことを言うのか。ずうっとベッドに伏していると、身体のあちこちが痛むのです。自分では寝返りが出来ないので、居間の椅子に座ることで身体の向きを変えたいのでしょう。

 居間の椅子に座らせます。するとしばらく経つとまた、「あっち行くよ!」と言います。今度の「あっち」とは、もと居たベッドのことです。椅子に座っていてお尻が痛くなったようです。そこでベッドに戻り、身体の向きを変えたいのです。

 ベッドに戻します。やがてしばらく経つとまた、「あっち行くよ!」と頼む声がします。仕方なくまた、居間の椅子に座らせます。

 

 そんなことの繰り返しが多くなった母です。食も細くなり、体重は29㎏しかありません。それでも、歩けない母をベッドから居間へ、そして居間からベッドへと移動させることは、70歳を超えた家族にとってはつらい作業です。なかなか力とコツがいるものです。1度や2度なら何ということはありません。しかし度重なると負担に感じます。

 それが余り続くと、こちらもイヤになって、いくら母が「あっち行くよ!」と言っても、放っておくことがあります。母も、放っておかれたと分るのでしょう。少し怒ったような大きな声で言います、頼みます。こちらもつい、「うるさい!」などと怒鳴ってしまいます。すると今度は、拗ねた甘えるような声で、「あっち行くよ~」と言います。暑いので窓を開けていると、そんなやり取りが外に聞こえます。隣近所の手前もあるので、仕方なしに母の言うとおりにします。

 

 母にしてみれば、目と鼻の先にあるベッドと居間の行き来も自分で出来ない、トイレにも行けない。人の世話になるばかりで、情けない思いをしていることと思います。

 長生きをするということは、もちろん素晴らしいことです。医学や介護保険といった福祉のおかげです。反面、身体の自由が利かなくなったつらさやもどかしさは、拭えません。知っている人は殆ど他界してしまい、寂しさもあります。世の中の動きにも余り関心が持てなくなりました。私たち息子には伺い知れない思いもあるでしょう。

 そんな母にとって、私たち家族3人で囲む食事が一番楽しい時だと思います。少量のビールを飲み(ノン・アルコールですが)、今が旬の鰹を食べ、煮物をつまみます。98歳にして自分で箸を持ち口に運べることに、在宅医療の医師も感心しています。息子である私たちも、そんな母の姿を見るとホッとします。

 

 しかし今月8日の夕食を境に、翌日から何も食べなくなってしまいました。水さえも飲みません。仕方なく点滴補給をしてもらいました。長い期間母を診てくれている在宅医療の医師からは、そろそろ時期が来たようだと言われました。

 そうした弱った状態の中でも、母は思い出したように、「あっち行くよ!」と言います。私にはその声が、「もう1度テーブルの椅子に座り、家族3人で食事を囲みたい」という風に聞こえます。

 1週間というもの、ただ点滴に支えられていました。そして15日の午後1時頃、母は亡くなりました。本当に「あっち」の世界に逝ってしまったのです。

 2年ほど前から、具合が悪くなったり元気になったりを繰り返していた母です。年齢を考えればいつその時が来てもおかしくないと頭では分っていました。しかしいざ亡くなってみると虚しさがつのります。もう1度母の、あの少し怒ったような、拗ねた甘えるような、「あっち行くよ!」が聞きたいです。

 私は喜んで枕元に飛んでいくでしょう。                  

【第93回】より良く老いる

 先日、新聞の「人生相談」という欄に、『92歳の母が、「もう何もしたくなくなった。早くあっちに行きたい」と愚痴ばかりこぼしている。家族としてはみな、母がこれからも元気に過ごして長生きして欲しいと願っている。そんな思いが母に伝わっていないようで、愚痴を聞くたびに悲しくなる。何かアドバイスを頂ければ‥‥』という投稿がありました。

 私の母は98歳で、この相談者の母と似たような状況です。愚痴こそ言いませんが、周りに関心がなくなり、やれここが痛い、あそこが痛いと訴え、夜中にも人を呼びます。定期的に訪問看護や診察をしてもらっていて、特に病気にかかっているという訳ではないのです。関心が身体のことばかりに向き、不安と頼りなさ、甘えたいという気持ちが混ざり、そんな風になってしまうようです。そんな訳でこの相談者の気持ちがよく分りました。

 

 回答者は下重暁子さんで、次のようなアドバイスがありました。

『年を重ねることは寂しいことである。親しい友人や親類縁者などが亡くなっていなくなる。「もう生きていても仕方ない。早くお迎えが来ればいいのに」と悲観的な気持ちになりがちになるのはよく分かる。ご家族からみれば、身体もまだ元気で、家族そろってサポートしているのに、どうして愚痴ばかりこぼすのかと思われるが、本人しか分らない寂しさがあるのだと思う。

 

 長生きして欲しいという気持ちは通じていても、それだけでは解決できない感情が愚痴という形で出てくるのでしょう。それをまずよく聞いてあげることです。話題を徐々に母上の興味のあるものに移していき、たくさん喋ってもらうことが大事である。家族が聞き手になり、若い頃好きだった音楽でも、歌舞伎役者のことでも、母上が好んで話に乗ってくる方向に持っていく‥‥。私たちは自分の父や母のことを分っているようで実は何も知らない。近すぎて分ろうとしてこなかった。それを埋めていく大切な時間を持つことである。

 

 介護は物理的なことだけでなく、心の介護も必要。おろそかにすると老人性鬱になることがある。自分が世の中で必要とされていると思えるからこそ、人は生きられるのである。どんなささいなことであっても、母上が必要だという場面を作ってあげましょう。料理好きなら、たまに作ってもらう。花が好きならベランダの水やりを日課にする。生きる張り合いを見つけてあげましょう。母上を大事にするとは、何もさせず過保護にすることではありません』

 以上が下重暁子さんのアドバイスでした。

 

 本当にその通りだと思います。私の母も1年半前までは、台所に立って野菜の皮を剥いたり、糠みそ漬けをしていました。車椅子に乗り、押してもらいながらも近くのスーパーへ買い物に行くことが出来ました。そんな時は表情に張りがありました。ベッドに伏しているよりは、外の空気に触れることで却って元気に見えました。

 しかし今は日中の殆どをベッドに横たわっています。台所仕事も買い物も、体力的に無理な状態です。テレビを見てもすぐに飽きてしまいます。絶えず身体の不調に煩され、一日が過ぎていきます。母を見ていると、年を取ることは中々大変なことだと思います。よくピンピンコロリが理想だと言われますが、評論家樋口恵子さんが言われるように、そんなのは至極まれで、誰でもがへこたれヨレヨレになって、苦しみながら長生きしなければならないのが現実だそうです。

 

 そうした中にあって、どうしたら自分らしく生きられるか。やはり何か生きがいになるものを持つことが大事だと思います。人から与えられるのでなく、自分で探し見つけ、楽しみながら続けていけるもの。そうしたものがあれば、へこたれヨレヨレになりながらも、自分らしい老年を送ることができるのではないでしようか。

 しかしこの「生きがい」を見つける事は容易なことではありません。若い内から模索し努力する中で掴み取らねば得られません。老いてから、それを探そうとしても出来ません。

 

「生きがい」という大層なものでなくても、「生きる張り合い」もしくは「持続できる興味ごと」でもいいでしょう。そうしたものを持った人は幸せだと思います。

 そう言う私自身、実はまだ何も持っていないのです。大いに反省せねばなりません。今回の新聞に載った「人生相談」を読み、より良く老いることの難しさ、大切さを思った次第です。