木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第34回】もうひとつの「エール」

■川崎が生んだ作詞家

 只今NHK朝ドラの「エール」が好評です。私も古関裕而の歌謡曲が好きです。同郷福島県というのも影響しているのかも知れません。面白いもので、生まれ故郷が同じだったり、住んでいるところが近かったりすると、それだけで何か懐かしさや親しさを覚えるものです。

 実は私の住んでいる川崎にも歌謡曲で有名な人がいます。〈赤城の子守唄〉〈人生の並木路〉〈湖畔の宿〉などを作詞した佐藤惣之助です。古関裕而とも一緒に歌づくりをしました。私の住んでいる近くが生誕の地です。

 今年が生誕130周年で、市ではそれを記念する展覧会を開き、私も見に行きました。それを切っ掛けに、以前佐藤惣之助の生涯を描いた「華やかな散歩」という市民劇を見たことを思い出しました。

 川崎郷土・市民劇は、川崎の歴史や人物を採り上げた創作劇を上演することで市民文化の向上を図り、あわせて豊かなまちづくりを推進するという目的で始まりました。

 今回はその市民劇「華やかな散歩」の物語を紹介してみたいと思います。皆がよく知っている〈人生の並木路〉や〈湖畔の宿〉という歌謡曲を、物語の中にからませながら佐藤惣之助の作詞家人生を描いています。

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     生誕130周年記念展覧会のチラシ

  

■市民劇「華やかな散歩」のあらすじ

 佐藤惣之助は、日本詩壇の前衛的詩人と言われ、室生犀星高村光太郎萩原朔太郎等と共に自由詩運動を展開していました。

 惣之助には、人に言えない秘密がありました。「吉見紫香」というペンネームを使って歌謡曲の作詞をしていたのです。伝統を重んじる詩壇では、歌謡曲の作詞をすることなど、金儲けのために身を売る行為だと軽んじられていたからです。

 実は、病弱な妻のためにお金が必要だったのです。しかし、その妻も亡くなってしまいました。そうした彼が、詩人としての在り方に迷っている時、萩原朔太郎の妹である愛子に言われます。

「詩は素晴らしいけれど、一握りの人に愛されるものです。歌謡曲は大衆の心を癒す魂の救済譜。大衆は生きる糧のような心の歌を求めています。私は惣之助さんの歌謡詞が好きです」と。

 

 昭和前期の日本を蔽った不況の波。それを国家救済の名のもとに救おうと、台頭する軍部の政治体制への介入が強まっていた時代でした。そんな暗い時代だからこそ、日本人のふるき良き悲しみ、喜びを歌い上げる大衆音楽というものを創りたいと、惣之助は思っていたのでした。愛子の言葉に励まされ、改めて自分の使命に目覚めるのでした。そしてこれからは、佐藤惣之助の名で作詞する決心をします。

 昭和8年秋、ふたりは結婚しました。

 昭和9年、〈赤城の子守唄〉を発表します。妻の愛子は前橋に育ちました。郷里国定忠治の話を妻から聞いて、義賊、民衆の味方であることに共鳴したのです。この歌で東海林太郎という歌手が誕生しました。

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       佐藤惣之助と愛子夫人

 お酒の好きな惣之助には馴染みの酒場がありました。そこにルミという女給が居て、近々結婚するというのです。話を聞いてみると、夫となる良作は義兄とのことでした。幼いルミを連れて母が再婚した先の、先妻の子だったのです。

 ルミが16歳の時、貧乏に耐え兼ねた義父は、ルミを身売りしようとしました。止めた良作は父と対立し、ふたりは駆け落ちのようにして、故郷秋田を出てきたのでした。そして4年後、ようやく結婚することができたのです。そんなふたりに惣之助は、〈人生の並木路〉という歌を作りました。昭和12年の時です。

  ♪泣くな妹よ 妹よ泣くな

   泣けば幼い ふたりして

   故郷を棄てた 甲斐がない

 この歌に送られながら、ふたりは榛名湖へ新婚旅行に行くのでした。

 

 日中戦争の只中昭和13年9月、惣之助は従軍作家として中国に派遣されました。軍部は、帰国した彼に、国民と前線の兵士の心を結ぶような歌を作ることを強要します。惣之助の作った軍国歌謡がラジオから流れます。しかし、それは自分の求めている大衆の歌でないことに悩みます。

 そんなある日、ルミの夫である良作が戦死した知らせが届きます。役所は、軍国の妻となったルミに対し、新聞記者への会見を強要します。

 ルミは拒みます。「自分は軍国の妻などではない。良作さんの妻です」と、泣きながら拒みます。そして、惣之助の〈人生の並木路〉の歌に、ふたりがどんなに励まされたかを語り、新婚旅行で訪ねた榛名湖の、あの宿の思い出を大事にして生きていくと誓うのでした。

 昭和15年5月、惣之助は〈湖畔の宿〉を発表します。

   ♪山のさみしい湖に   ひとり来たのも悲しい心

        胸の痛みに耐えかねて       昨日の夢と焚き捨てる

        古い手紙の薄煙り

 レコードの生産が追いつかないほどの大ヒットとなりました。一時は軍部から発売禁止の命が下りましたが、ほどなく解禁となります。大東亜共栄圏樹立会の歓迎会で、ビルマの首相が高峰三枝子に、〈湖畔の宿〉を要望し、そこにいたアジアの要人たちも大拍手をした。それで東条首相の鶴の一声が、という噂が流れました。

 日本人のふるき良き悲しみ、喜びを歌い上げる大衆音楽というものを創りたいと願う、惣之助の長年の夢が実現したのでした。

 

 昭和17年5月11日、義兄でもあり、現代詩壇の偉大な星とあがめていた、萩原朔太郎が肺炎のため逝去しました。その死は、痛恨の一語に尽きるショックを惣之助に与えました。

 葬儀の取りまとめ役として、戦時下、物のない社会環境の中、文字通り惣之助は日夜奔走し、多くの文壇人や関係者を集めて、しめやかな葬儀を執り行いました。

 しかし、何ということでしょう。その2日後の5月15日、惣之助はにわかに倒れ、急死してしまうのでした。享年52歳でした。          幕

 

■ぜひ朝ドラで

 以上が市民劇「華やかな散歩」のあらすじです。題名の「華やかな散歩」は、惣之助が大正10年に上梓した詩集の表題からとったということです。

 劇ですから事実そのままではありません。面白くするためや構成上の脚色も当然あります。俳句から戯曲そして詩を通して作詞家へと、年譜の流れを劇中で上手くまとめています。私は佐藤惣之助という人がとても身近に感じられました。生誕地の近くには、記念碑が3カ所建てられています。

 惣之助は魚釣りと酒をこよなく愛し、交友関係も広く、いろいろな逸話もあり楽しい

人です。願わくばいつか、佐藤惣之助の物語を朝ドラで番組化し、多くの人に知ってもらいたいものです。そう、もうひとつの「エール」として。

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   揮毫は武者小路実篤