木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

(第78回)イライラ解消法

 「政・官・財の、なりふりかまわぬ不祥事が相ついだ年だった。自分のことしか考えていない、節操のない政治家。自分の欲得、自分の会社のことしか考えていない経営者。そして、誇り高き官僚だったはずの人たちまでが、利権を懐に、すっかり志を失っているかに見える。私たちには、そう見えるのだ。競うように、しなければ損とでもいうふうに、次々と明るみに出てくる悪巧みに、胸が悪くなる。彼らのために、真っ正直に誠実に生きている人たちまで、同じ目で見られてしまう罪の重さを思ったことがあるだろうか」

 

 上記は、大石邦子さんの「この生命を凛と生きる」という本に書かれている文章です。平成10年の発行で、その中で去年(平成9年)の不祥事を書いているのです。驚くのは、26年も前の嘆きが、そのまま令和6年の今に当てはまるということの恐ろしさです。次々と出てくる政界議員の裏金づくりの醜さは、この文章にぴったり当てはまるではありませんか。

 大石さんは他人を批判したり、世相を論じるタイプの人ではありません。むしろ自分のいたらなさを反省し、常に相手の良さに感謝を抱こうと心がけている人です。交通事故に遭い、20代の殆んどを寝たきりの病室で過ごした人です。以後車椅子の生活を続け、80歳を過ぎた今も文筆活動をしています。

 私は2006年に直腸がんの手術をし、闘病記を読む中で大石さんを知りました。そしてその手記やエッセイに感動し、教えられ励まされてきました。たまたま「この生命を凛と生きる」を読み返していたら、冒頭の文章に触れ、昔も今も変わらぬ政界の乱れにあきれ果てた次第です。

 

 閑話休題  さて前回のブログで、今年やってみたい事として、「切り抜きの整理」を述べました。現在少しずつやっています。その中で、これはと思う記事がありましたので、そのことを記したいと思います。

 その記事は「イライラ解消法」です。書いたのはエッセイストの岸本葉子さんです。人間、自分の思うように事が運ばないとイライラするものです。例えば、地下鉄の乗換え駅でホームへの階段を降りてきて、電車がいるのが見えると反射的にダッシュし、目の前で出ていかれてがっかり。次の駅でも同じことが続くと、吐き出すような溜息が出ます。

 そんな時岸本さんは、「こういう日もある」と呟き、自分をなだめるのだそうです。岸本さんは、自分のことを「ものごとが計画どおりか計画以上に早く進むと気分がよく、そうでないと必要以上にストレスを感じる、欲張りで余裕のない面がある」と言います。些細なシーンの小さな「~べき」に追い立てられる性格。パソコンに向かっているのに仕事が思ったほど進まない、電話も今日はやけに多い。そんなときに「こういう日もある」と言い聞かせることで、イライラが抑えられ、少しは心が楽になるそうです。

 

 岸本さんがそうした「イライラ解消法」を思いついた切っ掛けは、ある医師の話を聞いたことです。その医師は、病気のことで色々悩む患者に対し、悪い想念が湧いたら「まあ、いいか」という言葉をつぶやいてみなさい。実感が伴わなくていい、意味がわからなくていい、とにかくお経のように、心の中でただ唱えてみなさいと言ったのです。

 半信半疑ながら患者が試すと、それまでは悪い想念がなかなか頭から離れなかったが、そうつぶやいた瞬間消えるようになったというのです。嘘みたいな話だけれど、医師の説明では、人の「べき」「ねばならない」という思考は脳の神経回路が作り出している、回路を切断すれば、その思いは出てこなくなる。切断する方法が「まあ、いいか」とつぶやくことなのだと言うのです。言葉にはそういう力があるのだと。岸本さんはその方法を応用できそうな言葉として、考えて思いあたったのが「こういう日もある」だったのです。

 

 私も短気な性格で、いつも何かにイライラしています。買い物をするセルフレジで、前の人がグズグズしていたり、やっと自分の番が回ったと思ったら、お札が詰まって器械が止まってしまった。係の人を呼んでも中々やってこない‥‥。そんな時、「こういう日もあるさ」と呟いてみる。確かに慰めになるようです。イライラが少しは減るかも知れません。

 切り抜きなので、以前に1度は読んだ記事です。でもすっかり忘れていました。そうした意味でも、「切り抜きの整理」は良いことです。

 

 ここでふと思い出したことがあります。立川昭二氏の著書「人生の不思議」という本です。「イライラ解消法」とは少し趣が違いますが、何かあった場合にもちょっと立ち止まって、心を落着かせる考え方です。

 立川氏は2017年に90歳で亡くなられました。歴史学者で文化史・心性史の視座から生老病死を追究された方です。「人生の不思議」という本には、こんなことが書かれています。

 「不思議という言葉は、幸福とか安心といった言葉とは使われ方がちがう。幸福はかならず不幸と対で考えられ、安心は不安と対で考えられる。しかし、不思議には対立項がない。したがって比較もなければ評価もない、ただ不思議だけである。幸福・不幸そして安心・不安はその原因を追及し、その解決を追及したがる。そこに悩みや葛藤がうまれる。不思議には原因もなければ解決もない。したがって悩みも葛藤もない。

 人生の幸福とか安心を目標にして生きていくより、人生の不思議ということを座標にして生きていくと、人生はかなり色合いのちがったものになってくるにちがいない。とりわけ年をとれば、いま生きていることを不思議と感じ、その不思議を見つめて生きていくことのほうが、気も軽く心も楽に生きていけるのではないだろうか」

 

 さすがに生老病死を追究された学者だけあって、凡人の私たちとは格が違います。「イライラ解消法」などというレベルでなく、正に達人の境地です。何があっても、「不思議なこともあるものだ‥‥」と眺めることができれば、イライラすることもありません。

 そう言えば、冒頭に述べた政界の乱れも、裏金づくりの悪巧みも、なんやかんやと言われながら、昔も今も延々と続いています。ふしぎです。これまた不思議なことであります。

 いやいや、これは不思議だなどと言って済まされることではありません。こちらのふしぎは「変だ、おかしい」の不思議です。おおいに怒り、その原因を追及し、その解決を追及しなければなりません。こういうイライラは解消してはいけないのであります。