■母が救急車で運ばれた!
何度聞いてもあのサイレンは嫌な音です。胸が締め付けられます。だんだんわが家に近づいてきます。嫌な音だけれど、来てくれてホッとします。そう救急車です。先月5日、母親が苦しみ出して、救急車に来てもらいました。
数日前から風邪気味だったのです。大事をとってベッドで横になっていました。だんだん食欲もなくなってきました。私が夕食の支度をしていたら、ベッドで横になっていた母が、「胸がむかつく、吐き気がする」と言って苦しみ出しました。慌てて洗面器を口元に用意しました。しかし吐き出すものがありません。殆ど食べていないからです。母は自分から救急車を呼んでほしいと訴えました。
掛り付けのA病院に運んでもらいました。私は待合室で3時間ほど待たされました。検査・診断の結果、肺炎になりかかっているので入院となりました(症状から新型コロナウイルスではないと判断されました)。母の容態は、酸素投与や喀痰吸引の処置で大分落着きました。医師からは、抗菌薬の点滴で治療すると説明を受けました。そして2点ほど確認書にサインを求められました。
1点は「身体拘束」です。高齢(93歳)のため急に認知機能が下がり、点滴の管を抜いたり、不用意に動いて安静が保てない場合が起こりうる。その時にはやむを得ず拘束をすることがあるかも知れないというのです。
2点目は「心肺蘇生の確認」でした。やはり高齢のため、いつ急変するか分らない。その場合の心肺蘇生法についてでした。あくまで延命措置をするか、それとも自然に任せるかの確認です。母は以前から無理な延命措置はしたくないと言っていました。私も弟もそう思っています。なので、その確認書にサインをしました。次のような項目です。
ア.強心剤、昇圧剤などの薬剤 イ.心臓マッサージ ウ.電気的除細動(電気ショック) エ.気管挿管 オ.人工呼吸器などです。これらの使用を、「希望しない」という欄にチェックをするのです。しかし、いざペンを手にした時は、覚悟が要りました。こうして具体的に、「さあ、どうするか」と突きつけられると、生々しいものです。
■水も飲めない状態から…
母はこのA病院には何度も入院しています。救急車で運ばれたことも5、6回はあったでしょう。しかしこうした確認をしたことはありませんでした。やはり93歳は病院側にとっても慎重を期する年齢なのだと再認識しました。
母には3日間食事が出ませんでした。水も飲めません。誤嚥の心配があるからとのことでした。母は「水も飲めないのか」と悔しそうでした。4日目に水を飲めた時は、それは嬉しそうでした。そして母は日ごとに回復してきました。
入院して8日目のことです。午後、私はいつものように病室を訪ねました。するとベッドに母が居ません。看護師に聞くと、院内の美容室に行っているとのことでした。戻って来た母は、髪を短くカットして別人のようでした。本人はサッパリしたと喜んでいました。
10日目に退院できました。家に帰って、改めて自分の髪型を見て、母は驚いていました。「こんなに短くしてまるで男のようだ」と嘆くのでした。母は自分で髪が洗えないので、ひと月に1度はカット、洗髪、白髪染めをしてもらう行き付けの美容院があるのです。しかるになぜ病院の美容室などに行ったのかと、私は聞きました。
すると、間もなく退院できるという話が出たのでつい嬉しくなり、「院内に美容室があるが行きますか?」と聞かれた時に、思わずハイッと返事をしてしまったとのことです。ずっとベッドに臥していた為、髪がボサボサになっていたのも気になっていたそうです。
■味噌汁と日記メモ
退院しても、母は食欲がありません。医師からは「食が細いのが心配だ」と言われていました。栄養のバランスなどよりも、ともかく何か食べること、そのためには「食べたい」という欲が大事だと言われました。母にとって食欲の出るものとは何だろうと、私は考えました。
ふと思いついたのはワカメでした。母に、「味噌汁の実にワカメを入れるよ。髪の毛にいいから」と言ってみました。すると、「ぜひ食べたい」という返事がきました。それからというものは、味噌汁には必ずワカメを入れました。それを切っ掛けに食が進むようになりました。ワカメを食べたからと言って、急に髪の毛が伸びるものでもありません。しかし母はそう思い込んでいるようです。何よりも食欲が出たことが幸いでした。
もうひとつ、母に変化がありました。日記らしきメモを付けるようになったのです。母が入院している時は、新型コロナウイルス感染予防のため、病室に入るにもマスク着用が必須でした。しかし余り持ち合わせがありません。店でも品切れです。そこで、せめてガーゼを取り替えることで、少ないマスクを使い続けることを考えました。普段はガーゼなど使いません。あちこちの引き出しを開けてようやく探し出しました。
その際に小さなメモ帳が出てきたのです。昔母が書いたもので、日付を見ると昭和56年とありました。今晩のおかずや、来客があったこと。夫の給料が幾らだったことや子供の下着を買ったことなどが書かれていました。母がまだ54歳の時です。字も力強くしっかりとしています。母にそれを見せると、懐かしそうに読んでいました。
それからというもの、ノートに日記らしきメモを書くようになったのです。以前からもう字は書けないと言っていた母です。右手が弱り、箸を左手で使っている位です。それでもペンは右手でないと駄目なようです。半分震えてミミズが這ったような字です。内容は日付と今日何を食べたかという程度のものです。漢字も忘れて、ひらがなが多いです。しかしそうして何かやる気を持ってする母を見るのは、嬉しいものです。つくづく人間にとって、「興味を持つこと」が大事なのが分ります。何かに心動かされ、やってみようという気持ちです。
■新型コロナウイルスではなかった
そう言えば、㈱コミュニティネットが運営する「ゆいま~るシリーズ」の基本姿勢は、「自分で出来ることは自分でする」ことです。例えばゆいま~る那須では、食堂はセルフサービスになっています。お皿やおかずを自分で取り、ご飯や味噌汁を自分でよそる。食べた後はカウンターに戻す。使ったテーブルを布巾で拭く。これらが自然に行われています。
些細なことですが、日常のこうした習慣は大切だと思います。自分たちはお客さまでなく、自立した生活人という自覚が持てます。
母は髪が短くなり、早く伸ばしたいとワカメを食べることで、食欲が戻りました。マスクのガーゼを探したおかげで古いメモ帳が出て、それに刺激されて日記らしきメモをつけ始めました。物事は何が切っ掛けで好転するか分りません。現在は晩酌のビールを味わうほど元気になりました。
母が退院してから、新型コロナウイルス感染は一気に拡大してきました。保育園や学校が休みになり、3月末からは東京都や首都圏などの各県では不要不急の外出自粛が始まりました。百貨店や映画館、美術館も臨時休業です。歓楽街も人がまばらです。コメディアンの志村けんさんが亡くなりました。最新の高度医療技術をもってしても勝てなかったのです。
そして4月7日、7都府県に緊急事態宣言が発令されました。こんなに怖いものとは知りませんでした。母の肺炎が新型コロナウイルスでなくて、本当に良かったと改めて思っております。