木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第4回】母と台所

8月で93歳に


   私の母はこの8月で93歳を迎えます。幸いに認知症はなく、日常の会話などはしっかりと出来ています。しかし身体の方はだいぶ衰えています。足が弱くて思うように歩くことが出来ず、家の中では伝い歩きです。耳も遠くなりました。昨日までは元気だったのに今朝は気分が悪いとか、風邪を引くといつまでも長引くなどと、体調管理にも難しいところがあります。
   年相応と言えばそうかも知れません。しかし意思疎通が出来ていることは有り難いです。時には親子で口喧嘩をするほどです。そんな時の母は決して負けていません。息子の私としては、嬉しいやら悔しいやらの複雑な思いです。
   もっとがっかりすることもあります。それは71歳の私と母が夫婦と間違われることです。病院に付き添った折りなどには、「やさしいご主人ですね」などと声をかけられます。「92歳の母です」と答えると、皆さん一様に驚かれます。そして、「若いですね、とてもそんなお年に見えません」と言ってくれます。

 

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若く見える母

   昨年の暮れ頃から、母は右手の親指が思うように動かなくなってきました。食事中に時々箸を落とすようになったのです。最初は単に高齢によるぼんやりの為だと思いました。
  「ホラ、また落とした!」 そう言って注意し、しっかりするようにと言います。床に落ちた箸を洗い、母に渡します。母も今度はしっかりと握り、食事を続けるのでした。母親自身も、自分がぼんやりしている為に箸を落とすものだと思っていたようです。
   やがて、それがぼんやりしている為ではなく、どうやら指の感覚に変調を起こしているせいだと気づくようになりました。何かものを書こうとしても、ボールペンがうまく握れない。字が満足に書けなくなる。包丁を握っても力が入らず、ものをちゃんと切ることができない。そうしたことが起きてきました。
   それらは一気に出来なくなるというのではなく、ある時は出来たり、しばらく経つとまた出来なくなったりと、少しずつ進行してきたという感じです。

 

■一番、生き生きする場


   必要に迫られると、人はいろいろ工夫して努力するものです。右手の指が利かなくなった母は、左手で箸を使うようになりました。最初はぎこちなくこぼすことが多かったです。しかしだんだんと左手で食事が出来るようになりました。
   包丁でものを切るときは、まず右手で包丁を握り、その上に左手を乗せて、押し込むようにして切ります。つまり両手で包丁を使っているのです。とてもやりにくそうです。時間もかかります。つらいと言いながら台所に立っています。
   しかし、この台所仕事は、私が代わりにやると言っても譲りません。特に糠みそ漬けは、自分でなければ駄目だと言い張ります。日に一度は糠床をかき回し、切った胡瓜やナスを入れ、糠漬けするのが自分の日課と決めているのです。
食材を炒めたり煮たりする、こまごまと動き回らねばならぬ作業は、足の弱った母には出来ません。私がやっています。しかし皮をむいたり切ったりする作業はまだ出来ます。長年主婦として働いてきた母は、せめてそうした下拵えくらいは続けたいと思っているのです。

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台所に立つ母



   母は台所のことは自分がやってきたという自負と誇りがあるのでしょう。私が余計な口を挟んだり、ヘタに手を出すと邪魔だと言って怒ります。また調度品などをちょっとでも違う所へ動かすと、すぐに気づいて元の場所に戻すよう命じます。

 

   母、いや母に限らず、女性にとって台所というところは特別な場所なのかも知れません。ある年配の女性に聞いたことですが、いろいろ悩みや考え事があっても、女は台所に立って作業をしていると、気持ちが落ち着いてくると言います。そして、石垣りんという詩人の書いた『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』という詩を教えてくれました。台所を守ってきた女性の誇りと愛情が滲み出ている詩でした。お釜は自動炊飯器に、かまどはガスコンロに変わりましたが、女性が台所に抱く特別な思いは今も変わらないようです。
   夕方になると、「もうこんな時間か…」と母はつぶやき、「疲れる、疲れる」と言いながら台所に向かいます。でもそんな後姿は、一日のうちで一番生き生きしているように見えます。

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