木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第5回】垣添忠生氏の「悲しみを癒す旅路」

 私は講演や対談を聞くのが好きです。特に人生についての話に興味があります。できれば会場に行って聞くのが一番いいのですが、中々そうした機会が持てません。テレビやラジオの番組で楽しんでいます。

 最近ではNHKEテレ「こころの時代」で放送した、医師・垣添忠生氏の「悲しみを癒す旅路」が印象に残りました。

 

 垣添氏は、1941年の大阪市生まれ。東京大学医学部を卒業後、都立豊島病院などを経て75年から国立がんセンター病院(現・国立研究開発法人国立がん研究センター中央病院泌尿器科に勤務。2002~07に総長を務め、07年には名誉総長に。03年には天皇陛下(現上皇)の前立腺がん手術を取り仕切っています。現在は公益財団法人日本対がん協会会長、公益財団法人がん研究振興財団の理事も務めるとあります。

 

■大反対の末、結婚

 垣添氏の著書『妻を看取る日』(新潮社)を読むと、氏のこうした精力的な活動の源は、研究熱心な上に一途な性格によることが分ります。そして何よりも人生における最愛の伴侶(昭子さん)に恵まれたことが大きいと思います。

 

 昭子さんは聡明で話が面白く、生きる上での考え方も二人は似たものがありました。波長が合うという言葉がありますが、打てば響くような昭子さんに垣添青年は惹かれました。「結婚するならこういう人がいいんじゃないか」という思いは、出会いからひと月も経たない内に、「結婚するならこの人しかあり得ない」に変わったと言います。

 その時垣添氏は医師になりたての26歳、昭子さんはひと回り上の38歳で既婚者、しかも離婚調停中の身でした。垣添氏は家族から大反対されました。母親からは「その人と結婚するなら、私は自殺する」とまで言われ、兄弟からも冷たい目で見られました。それでも二人は結婚し、40年間生活を共にしました。子どもはなく、それだけに夫婦の絆は堅かった。

 

■最愛の妻ががんに

 昭子さんが78歳の時、肺小細胞がんに罹りました。ほかの肺がんに比べて進行が早く、転移しやすい厄介ながんと言われます。治療の甲斐なくやがて脳、肝、副腎へと全身に転移していきました。医師である垣添氏は妻の死が近いことが分りました。入院中の昭子さんは、体調の良い時は家に戻り、夫と一緒に物の整理をしました。どこに何があるかをそれとなく知らせていたのです。

 2007年12月28日に昭子さんは家に帰りました。最期は家で迎えることを本人が強く望んだのです。垣添氏はずっと傍に付き添いました。誰も呼ばず二人だけで過ごしました。31日の夕方、それまで意識のなかった昭子さんは急に半身を起こし、両目を開けてしっかりと夫を見つめました。その目は、声にならない声で“ありがとう”と言ったのです。そのまま昭子さんは亡くなりました。

 

 それからの3カ月間というものは、唯々泣き暮らしたと垣添氏は言います。食事も喉を通らず、酒で流し込むようにして胃に入れた。夜は眠れず睡眠薬を飲んだ。昼間の仕事だけが救いだった。仕事に追われることで、一瞬でも悲しみを忘れることが出来たから。そんな姿を見て、周りの人たちはとても声を掛けられる状態ではなかったと述べています。夜、家に帰ると再び悲しみが襲ってきた。忘れるために強い酒を呷る。体重はどんどん減ってきた――。当時のことを垣添氏は次のように回想しています。

「妻の死後3か月間というものは地獄の苦しみ、死ねないから、ただ生きている状態だった」

「特に最初の10日間は、もう一人の自分が私を見ている感じがあって、『この男は完全に鬱だ、一体どの位悪くなっていくのか……』と、じっと見ている様子。ず~っと落ち込んで地面の底の硬い岩盤に突き当たり、それより先へは入れない様な状態になった。そのままず~っと横に移動していって3カ月が過ぎていった」 

「出勤するとき、玄関で妻の靴がチラッと目に入ると涙が噴き出してくる。衣類を片付けていて、妻の好きだったブラウスやスカーフがヒョイと出てくると、また涙。妻と一緒に何度となく通った道にさしかかると、思い出とともに涙があふれて止まらなかった……」

 

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■立ち直ってゆく過程

 しかし、3カ月ほど経つと、わずかではあるが回復のきざしが見え始めた。悲しみが癒えることはない。だが、時間とともに和らいではいく。垣添氏は自分が立ち直っていった経緯を次のように分析しています。

◆3カ月間というもの、ひたすら泣いたことが良かった。とかく男は泣くものではないという慣習があるが、自分は素直に悲しみに浸った。泣くことには浄化作用(カタルシス)がある。泣くことでエンドルフィンという鎮痛作用がある脳内ホルモンの一種が出て、気持ちが鎮められる。とことん泣いたことが立ち直るバネ(復元力)になった。

◆死の間際、それまで意識のなかった妻が急に半身を起こし、両目を開けてしっかりと自分を見つめた。声にならない声で『ありがとう』と言ってくれた。その心の交流が支えとなり自死しないで済んだ。

◆寺の住職に勧められて百箇日法要をした。死後100日位経つと、遺された者が死を受容していけると捉える先人の教えが身に染みた(本人が望んだ通り葬儀はしなかったが、この時に初めて親戚の人にも来てもらった)。

◆食生活、運動、健康管理をひとつずつ改善していった。食欲が出てきて、酒も無茶な飲み方をしなくなった。精神が前向きになってきた。

◆妻の絵の遺作展を開いた。妻は多才な人で写真や絵画も嗜んだ。一周忌のつもりで遺作展を開くことを思いついた。そうした絵の展覧会の準備や作品集の制作は、妻との一体感を味わえる充実した時間となった。

 

 こうして1年をかけて少しずつ立ち直ってきたと言います。垣添氏は本にも書いていますが、「自分は長年、死を身近に感じる場所で働いてきた。しかし妻を亡くした喪失感は、これまでに経験したことのない、想像をはるかに超えるものだった。妻が私の人生から突然姿を消し、もう話しかけられなくなる日が来ることなど、ほんの少し前までは想像すらしていなかった」とあります。

 3カ月ほど前から余命が分り、病室に通い、家で最期を迎えたいと望んだ妻を看取った垣添氏です。理性では死を覚悟していた筈です。しかし感情というものは別なものなのですね。理性で感情を抑えることなど不可能なのでした。

 

■慰霊の旅から感謝の旅へ、そして……

 2015年7月、垣添氏は四国八十八か所を巡る遍路旅に出ました。亡き妻への慰霊の旅です。遍路の日々を重ねる中、沁み沁みと思うのでした。

「両親やまわりからの強い反発にも負けず、二人は一緒になれた。もしあの反発に屈して昭子と結婚していなかったなら、私の人生は全く別な人生になっていただろう。大変だったけど、意志を貫いて40年間の結婚生活ができたことはとても幸せだった」

 垣添氏は改めて気がつきます。妻は慰霊の対象などではなく、日々自分と共に歩いてくれているのだ。いつも私を援けてくれているのだと。

 慰霊の旅は、いつしか感謝の旅に変わっていきました。

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遍路旅へ

 今年、垣添氏は78歳を迎えました。亡くなった時の奥さんと同じ年齢です。現在の心境は、「いつ死んでもいい」という思いだそうです。この言葉ほど潔いものはありません。本当に充実した生き方をしたからこそ言えるのです。そしてこれからの人生は、がんを抱えて生きる人々のために捧げたいと語ります。

 がんの早期発見、そのためのがん検診の重要さを呼び掛けます。がんで苦しむ患者や家族を失いつらい思いをしている遺族たちに、悲しみを癒すヒントになればと、ご自身のつらい体験を伝えています。

 さらに力を入れているのが、昨年8月から始めたがんサバイバーウォークです。医療の進歩でがんは死の病気ではなくなっても、職場や周囲からの偏見はなくならない。それをなくす運動のため、全国のがん拠点病院32カ所を歩いて周られました。移動距離は半年で3,500キロに及んだそうです。

 垣添氏の感謝の旅は、いつしか「悲しみを癒す旅」へと続いていくのでした。

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四国八十八カ所 33番