木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第47回】 何か好きなもの

 暑い! 連日33度を超す猛暑です。94歳の母は今月半ば頃からグッタリしています。食事を済ませる(ほんの少ししか食べませんが)と、まっすぐベッドへ直行です。気持ち悪い、ムカムカすると訴えています。エアコンや扇風機を使って室温を調整します。気持ち悪いのは幾分治まりますが、トイレや食事以外は殆どベッドで横になっています。昨年の今頃もそうでした。夏の暑さは94歳の母には厳しいのです。当然食欲も湧きません。食事だよと声をかけても、「食べたくない」と言います。終日ベッドに横になっているのだから、食欲がないのも分ります。

 

 少し前までは、夕方になると母は夕食の支度をしていました。足が弱いので、台所を行ったり来たりは出来ません。流し台の前にじっと立って、野菜や果物を切ります。糠みそを漬けたりします。途中椅子に座って、休みながらです。そうやって90分ほどは流し台の前に立っていました。ずいぶん時間はかかりますが、母にとっては1日の内の大事な仕事でした。自分の役割として励んでいました。そうして体と頭を働かすことで、食欲も湧くのでした。今は、そうしたことも出来ません。

 

 代わりに私がします。野菜を切ったりすると、その形に目が引かれます。タマネギの幾層にも重なった切り口の輪。ピーマンの空洞に埋まっているワタや種。胡瓜の青々しさ。茄子を半分に切った時の柔らかな白色。長ネギの芯にあるネバネバしさ。それぞれに独自な形と不思議さがあり美しささえ感じます。それにしても糠みその発酵力はどうでしょう。たった1日漬けただけで、胡瓜や茄子、大根がお新香として生まれ変わるのです。糠床には凄いパワーがあると驚きます。

 長い間、母の傍らで手伝っていたので、見よう見まねで夕食の支度が出来るようになりました。味噌汁なども、味噌加減や煮干の大切さ、何よりもだしが味の決め手になるのも覚えました。

 そうして作った息子の夕食に義理を感じてか、母は食欲がないと言いながらも食卓の椅子に座ります。テーブルに並んだおかずを見てやがて少しずつ箸を付けます。自分の口に合うものだと意外に箸が進みます。ちぢみなどは好物で、この前などはビールを飲みながら皿1枚分を食べました。ご飯もそのままでは食べたがりません。そこに少しゴマ塩をまぶすと喜びます。塩分は良くないと言われます。しかしそれを加えることで少しでも食欲が増すなら、食べられないよりはいいと思います。

 

 こうして見てみると、人に取って大事なのは「何か好きなもの」があるということです。それを失くすと気力まで失います。例えば夕食が終わってテレビなどを見るとします。しかし興味がないものだと、母は食卓の椅子に座ったまま眠ってしまいます。ところが好きな番組だと、目をパッチリ開けて見ています。特に漢字クイズが好きです。大学出のタレントが読めない漢字があると、「あんなものが読めないの?」と驚き、そして嬉しそうです。番組では、面白くするためにわざと読めない振りもするのでしよう。しかし母は、それをまともに受け取って大得意です。私にはつまらぬクイズ番組に思えても、そうして楽しませてくれるのは、娯楽番組の良さなのかも知れません。このように、人は興味のあることで背中を押されます。

 そう言えば、亡き父はプロレスが好きでした。力道山が活躍していた大昔の話です。テレビを見ていて座卓がガタガタと揺れるのです。見ると、父が真剣な顔で震えながらプロレスを見ています。対戦相手と血ダルマの決闘場面です。今では、そうしたことも見せ場を作るひとつのショーだと分りますが、当時はまともに信じていた時代です。そんなに怖いものなら、見なければいいと思うでしょうが、「怖いもの見たさ」が勝り、力道山が仕返しする場面を期待して、見ずにはいられないのです。

 

 終日ベッドに横になっている母も、私の弟に連れて行ってもらう週に1回のスーパーへの買い出しには意欲を見せます。勿論スーパーの中では車椅子使用です。それでもスーパー内をひと巡りし、1週間分の食材や日用品を選ぶのは、母にとっては気力の出る楽しい作業なのです。そうして無理をしてでも外出した後の方が、却って元気なように見えます。

 これから益々暑くなります。あとひと月もすれば母は95歳を迎えます。その頃には猛暑も少しは和らぐことでしょう。そして母が台所に立ち、野菜や果物を切ったり、糠みそを漬けたりする姿も見られることでしょう。