木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第72回】「那須まちづくり広場」を見学して

 今月の14日から19日の間、ゆいま~る那須に滞在しました。出発する2日ほど前から台風7号が接近してきました。直撃すると新幹線もストップする大型台風です。運よく関東・東北地方は逸れてくれました。

 出発当日、晴れていると思ったら急に大雨になり、また太陽が顔を出すのを繰り返す、めまぐるしい車窓風景でした。那須塩原駅に着いた頃は綿菓子のような雲がポッカリと浮かび、その上に青空がのぞいていました。まさに牧歌的という表現がぴったりでした。新白河駅に着くとまた土砂降りの雨という、遠く離れていても台風7号の影響の大きさがよく伝わりました。

 

 早いものでゆいま~る那須に入居契約をして10年が経ちました。しかし時々しか滞在しないため、家具類などはまだ揃っていません。少しずつ準備をしているところです。今回は衣装戸棚と食器棚を購入しました。各々幅60cmほどの小さな家具です。滞在中に配達するよう業者に依頼しておきました。

 ちょっと驚いたことがあります。搬入するに当たって各々「玄関先納入」となっていましたが、本当に玄関先までしか運んでくれないのでした。狭い居室なので、あとちょっと運んでくれれば其処が設置場所なのに、決して玄関先以上は中に入れてくれません。運んでうっかり壁や床にキズを付けてしまうことを危惧している様でした。会社の規則で厳しく言い渡しがされているのでしょう。

 幅60cmの小さなものといっても、やはり衣装戸棚です。それなりに高さも重さもあります。玄関からすぐ近くが設置場所でしたので、なんとか自力で運ぶことが出来ましたが、頑なまでの納品業者の規則厳守でした。余計な責任は負ってはならぬという企業方針なのでしょう。

 食器棚は「お客様組み立て」となっており、組立て所要時間45分と記してありました。説明書通りに作業してみましたが、開梱と後片付けやゴミ処理を含むと90分位は掛かりました。こうしたものは余裕を持って取り掛かる必要がありますね。こうして少しずつ家具などが揃い、居室らしくなっていくようです。

 

 私は居室の中で是非こうしてみたいと思う事があります。それは物を出来るだけ収納するという事です。ともかく物を出したままにしておかない。本はもちろんパソコンや筆記類、こまごまとした身の回りの物を、使い終わったら決めた収納場に仕舞うということです。そうすることで居室がスッキリとし、後片付けや掃除が簡単に済むからです。

 最近の私は物を探すことが多いのです。必要な時に見つからずあちらこちらを探す時間が増えました。部屋が散らかっているとそんなことがよくあります。そうした無駄をなくしたいと思っているのです。

 

 今回の滞在中に是非行きたい所がありました。「那須まちづくり広場」です。ゆいま~る那須から車で15分位の近さにあります。廃校になった小学校校舎と校庭を利用して、生涯活躍のまち、新しい学びとコミュニティの拠点として再生するという目的で開設されたのです。以前見学した時はまだ準備段階という感じでしたが、その後の完成した姿を見たかったのです。

 広い校庭だった場所には49戸の自立型サ高住が建ち、空部屋は1戸だけという満席状態とのこと。元校舎は改修され、多世代住宅、ホール、カフェ、マルシェ、ゲストハウス、貸事務所、放課後デイサービス、就労継続支援B型が入る「多世代・多文化コミュニティゾーン」になっていました。

 屋内プールだった建物は要介護型のサ高住(26室)に改修され、24時間常駐する介護スタッフが入居者を見守っています。体育館は那須町の防災の拠点となっているとのこと。

 

 また最期まで自然体で暮らせる場所として、コミュニティ型シェアハウス「みとりえ那須」がありました。言うまでもなく、「ゆいま~る」の基本理念は完成期医療福祉です。死は終わりでなく、人生の完成と捉えます。「みとりえ那須」はまさにその具体的な実現の一例ではないでしょうか。

 生活の基本である食事、洗面、入浴、排泄などに独自な工夫をこらし、できるだけ自分の力で、自分らしく過ごせるような住まいになっていました。独自な工夫というのは、例えば手すりなども「掴む・握る」という従来の考え方でなく、身体の弱い人を支える、寄り添うという造りになっています。滑りにくいように溝を付けるなど細かい配慮が伺えました。「みとりえ那須」は東日本大震災で使用したログハウスを移築した、温かみの感じられる洒落た建物でした。

 

 昔はお盆が過ぎると少しは涼しくなったものです。しかしここ数年というもの、8月末になっても依然と暑さが続いています。いつまでも暑いです。

 そんな中、私の母はこの18日に97歳の誕生日を迎えました。今では日中の多くをベッドに横たわっています。それでもトイレには自力で行き、食事も小食ではありますが自分で食べることが出来ています。夏の暑さには弱い母ですが、こうして今年の夏も無事に過ぎようとしています。               

【第71回】足場が足掛かりとなって

 以前、わが家の外壁塗装を検討していることを述べました(第67回目です)が、結論として実施することにしました。今年の10月中頃を予定しています。そして業者の方とお話していく中で、外壁塗装をする上でひとつ困った事が分りました。工事に必須な足場を組むためには、隣家の敷地内に作業員が立ち入らなければならないと言うのです。

 わが家は東側、南側、西側の三方が隣家に取り囲まれています(それゆえ日当たりがとても悪いです‥‥)。北側だけは道路に面しています。問題箇所は西側なのです。建物と塀(というよりは柵に近い簡素なものですが)との幅が余りにも狭く、このままでは足場を組む作業者が身動き取れず、どうしても隣家に入らせてもらわなければ作業が出来ないのです。

 

 実はこの西側、以前には車1台が通り抜けられる位の道路があったのです。25年前に外壁塗装をした時はその道路があったので、足場を組む時にも何ら支障はありませんでした。

 当時この西側一体は大企業A社の社宅が立ち並んでいました。しかし社宅がなくなり、跡地が戸建住宅地になった時に、その道路もなくなってしまったのです。西側の隣人には申し訳ないが、どうしても敷地内に入らせてもらわなければなりません。工事は10月中頃ですが、こうゆうことは早めに連絡・お願いをしておかないといけません。早速事情を説明して、敷地内に立ち入ることのお願いをしました。隣家の方は気持ちよく了解してくださいました。

 

 そんな事を切っ掛けに、「実は‥‥」と、今度は隣家の方から話を持ちかけられました。何のことかと思ったら、西側の隣家との境にある塀のことでした。材質は鉄なのですが、長い年月の間に塗料が剥がれ、所々は腐食して欠け落ちているひどい塀です。それを気にしているようでした。

 なにしろ45年前にわが家を建てた時に取り付けた塀です。古いのは当然です。道路に面している北側の塀も同じ様な状態です。私もそのことは知っていました。しかし塀だけを新しくしても、実際に住んでいる家そのものが古いのです。バランスが合わないと思い、古いものは古い同士がいいと、今まで放置しておきました(ただ門扉だけは防犯上のこともあり、数年前に新しくしました)。

 

 前述したように西側の境は幅が狭く、人が1人やっと通れるしかありません。従ってそこは余り利用せずにいたのです。それゆえ塀が古くて汚くても、当家としては何ら差し障りがなかったのです。ところが西側の隣人(以後Kさんと称します)にしてみると、そこは門から玄関にいたる場所で、古くて汚い塀はとても目障りのようでした。

 勿論、面と向かって「目障り」という表現はしませんでしたが、Kさんの話し振りからすると気になっていたようです。Kさんはこの西側が道路だったことも知りませんでした。塀も、社宅がなくなり戸建住宅地になった時に、建設業者が取り付けたと思っていたようです。

 Kさんはとても綺麗好きらしく、門から玄関にいたる敷地もきちんと整備されており、建物の外壁塗装もしっかりとされています。掃除も行き届いておりゴミ処理も完璧です。そんなKさんにしてみたら、西側の塀の古くて汚れているのは、美意識が許さなかったに違いありません。

 

 建物や塀を維持するということは、自分だけの問題ではなかったのですね。近隣との調和が大事だということが分りました。自分の家の事だから、どんな有様でも勝手ではないかというのは間違った考えでした。自分では見えない箇所、気づかない部分も、他の人にしたらとても気になることがあるのでした。Kさんは長い間いやな思いをしていたことでしょう。

 しかし近隣の間でこうした事を話題にするのは、中々難しいものです。今回たまたま足場のことで話しやすい切っ掛けが出来たのだと思います。

 改めて思うに、こうして口にはしないが、不満だったり気にしていることは案外多いのではないでしょうか。そこで大事なのは、相手の立場になって考えてみるということです。想像力を持つことですね。もし私がKさんの立場であったら、やはり古くて汚い塀は目障りだと感じたことでしょう。自分のところが綺麗なだけに、よけい目に付いた筈です。

 しかし中々そんなことは隣人に言えない。そうしたジレンマがあったのではないでしょうか。足場のことからKさんの思っていることが分り良かったです。文字どおり、足場が足掛かりになったという訳です。

 

 Kさんと話し合っている内に、ひとつの案が出てきました。塀を新しくすることは手間も費用もかかります。そこで塀はそのままにしておいて、Kさんの方から見える側に、綺麗なシートか何かで塀を覆うという方法です。つまり古くて汚い部分を覆い隠してしまうのです。そんな工夫を思いついたことで、Kさんは嬉しそうでした。

 今年の秋には、わが家の外壁も塗り替えられ、塀にも飾りシートが付けられます。さてどんな風に変身するか今から楽しみです。

【第70回】母の要介護度と給付サービス

 以前から、「あったらいいな」と思っていた物がありました。座ることで正しい姿勢をケアするというシートです。普通の椅子に乗せて使用します。そのシートに座ると腰全体が包まれるような感じになります。腰が本来の正しい位置になるようにカーブがついているのです。前かがみになりがちな姿勢を半ば強制的に真っ直ぐにしてくれます。

 腰痛もちの私は、十数年前からこのシートを知っていました。店内に見本と称して置いてあるものを試してみたりもしました。ただ値段が高い(3万円弱)ことや、本当に腰に効くのかという迷いがあり、購入するまでにいたりませんでした。

 

 今月の初め自宅近くの薬局に行った時、其処にこのシートが販売されていたのです。値段は2万4千円でした。自由に試して良いという見本品も置いてありました。薬が出来るのを待っている間座ってみると、やはり具合が良いのです。「ちゃんと座りなさい」と言ってくれるように、腰を伸ばしてくれるのです。

 座り初めはちょっと痛い感じがするのですが、悪いところを矯正してくれているのだと思うと、却って心地良さを覚えるほどでした。購入意欲が湧きました。しかし薬が出来るのを待っている間のわずか10分間程度の試しです。本当に効くのかやはり疑問です。また自宅の椅子に乗せた場合、実際の座り心地はどうなのか分りません。あれこれ迷いました。

 

 そして思いついたことがありました。薬局は土曜日の午後から日曜日の間は休みなのです。その間にこの見本品を借りて、自宅で試したいと申し出たのです。薬局は本社にその旨を伝え、了解を得ることが出来ました。

 自宅で試した結果、購入することに決めました。腰の急激な改善は無理としても、長い間にはそれなりの効果はあるだろうという気がしたからです。私の場合、腰痛の他にも腰部脊柱管狭窄症という持病があるのです。気長に、少しでも症状が和らぐのを期待するばかりです。

 それにしても、私の母は一度も腰が痛いと言ったことがありません。手すりを使い、時には人手を借りながら何とかトイレへは行けますが、日中のほとんどはベッドに横たわっている状態です。身体を動かさないのに腰の筋肉が衰えないのかと不思議でなりません。

 

 その母ですが、今まで要介護1の認定を受けていました。介護認定は定期的に審査をします。そして今回の審査で要介護3になりました。数字からすると、ずいぶん介護度が重くなったことになります。確かに以前よりは身体の動きが鈍くなり、人の手を借りることが多くなりました。しかし一気に2段階上がるほど悪くなってきたとは考えられません。

 実は、元々この要介護1というのが正しくなかったのです。どう考えても要介護2くらいの状態なのでした。いろいろな人に話しを聞いてみると、審査というのは幅があって、審査する人によってずいぶん変わるようです。小一時間ほどの審査で書類を作成する訳ですから、絶対に正確という訳にはいきません。

 母は訪問診療を受けていますが、その担当医師も要介護1の認定では軽すぎると言っていました。今回の審査では、家族の意見もよく聞いてくれて、その場では表面に現れない不具合なども考慮に入れてくれたのだと思います。

 

 さて、その介護保険利用ですが、要介護3に該当したことで、給付内容が増えました。今まで知らなかったことですが、家計の面でも助かることなので、ここに述べてみたいと思います。新しく増えたのは次の3点です。

1.(紙おむつ及び日常生活用具の給付)

 紙おむつや尿とりパッド、防水シーツ、おしりふきペーパーなどが、1カ月5,000円以内で10%の価格で購入出来ます。つまり5,000円分のものが500円で購入出来るのです。

 注文すると業者が自宅まで届けてくれます。紙おむつや尿とりパッド、おしりふきペーパーは毎日使うものですから、ひと月分の経費も馬鹿になりません。10%の価格で購入できるのは大変助かります。

 

2.(寝具乾燥の利用)

 年間4回利用出来ます

・寝具乾燥一式サービス‥‥‥寝具1組(掛け布団、敷布団、毛布) 1回 572円

・寝具丸洗いサービス  ‥‥‥寝具2枚(掛け布団、敷布団、毛布 いずれか2枚)

                                1回 1,155円

                  毛布、タオルケットのみの場合は4枚まで

 寝具乾燥は乾燥車が訪問して当日実施してくれます。寝具丸洗いは事業者が預かって実施し、後日自宅に配達してくれます。また代替となる寝具を借りることも可能(無料)とのことです。

 寝具はかさばって重いので、コインランドリーに持っていくのは大変です。価格も安価なので助かります。

 

3.(訪問理美容サービスの利用)

 年間6回利用出来ます。1回 2,000円

・理容サービス(調髪、顔そり、洗髪(ドライシャンプー))

・美容サービス(カット、ドライシャンプー、ブロー)

 業者の方が自宅まで来てくれて理美容をしてくれます。夏季の汗をかく時期にシャンプーをしてくれるのは衛生的に良いです。ただドライシャンプーは、肌の弱い母にとってどうなのかと思っています。

 

 以上の3点が新たに加わった介護給付です。聞いてみると、こうした給付サービスは各自治体によって様々だということです。実施していない場合や内容も違うそうです。たまたま私の住んでいる川崎市では、こうした給付があるということを記しました。

 

追記

 ハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスさんが、21日に誤嚥性肺炎で亡くなったのを知りました。享年72歳。NHK番組「猫のしっぽ カエルの手」に出演したのを見て、ファンになりました。このブログ「木もれ陽ベンチ」の写真はベニシアさんの四季の庭なのです。いわば借景です。ご冥福をお祈りいたします。            

【第69回】白河の街を散策

 5月1日月曜日。この日はゆいま~る那須へ行く日でした。5日間ほどの滞在です。その1日の明け方4時頃でした。階下で寝ている母親から呼び鈴がなりました。(1階で寝ている母が急な用事があった時、2階で寝ている私共に伝わるよう、母の枕元と2階の間には無線式ブザー装置が置いてあるのです) 

 叩き起こされた私が行くと、母はムカムカして胸が苦しいと言うのです。しばらく様子を見ていましたが、余り辛そうなので在宅医療を頼んでいるHクリニックに電話をしました。母は月に2回の割合で、定期的にHクリニックに診てもらっています。在宅医療の良いところは、緊急の場合に夜中でも連絡が出来ることです。実は、母のこうした症状は今回が初めてではありません。4カ月ほど前も同じようなことがあり、夜中に来診してもらったことがあったのです。

 今回も似たような症状でした。そこで前回に処方した薬が残っていましたので、その薬を飲んでしばらく様子を見ることにしました。午前7時頃にトイレに行き、だんだん胸のムカムカも減少してきた様子です。もしこのまま苦しさが続く様でしたら、那須には行けないかと心配しましたが、この調子なら大丈夫だと判断して、私は予定通り那須に行くことが出来ました。

 

 今回のゆいま~る那須行きで、ぜひ実行したいと思ったのは、白河市の街を散策することでした。実は、私は5歳まで白河駅近くに住んでいたのです。しかし自分には当時の記憶は全くありません。父母の実家が白河市ということもあり、小学校低学年の夏休み期間には、その実家でひと夏を過ごしていたという思い出はあります。父母の実家も今では世代が変わり、交流は少なくなっていますが、言ってみれば自分の故郷のような所なのです。

 ゆいま~る那須には、外出や買い物、病院行などの交通手段として、毎日定期的に運行する車が用意されています。それを利用して白河の街に行ってきました。白河駅に午前11時頃に着き、午後3時頃に帰りの車が来るまでの4時間の散策です。

 

 駅のすぐ傍にある白河市立図書館はぜひ寄ってみたいところでした。以前新聞で知ったのですが、蔵書数や設備の点で高く評価されている図書館です。ともかく広さに驚きました。入館すると受付の方が積極的に挨拶の声をかけてくれ、とても感じの良い雰囲気でした。

 白河の街なかは城下町だったということもあり、古い歴史を感じさせるものがありました。レトロな建物の中にも大人の遊興場や蔵、教会や寺があり、中々味わいのある街でした。市役所の建物も立派なものでした。ちょっと奥に入ると川が流れ、風情ある家並みと路が見えました。街を見守るかのような小峰城の三重櫓は見事でした。5月の連休中ということもあり、店が閉まっているのが多くて、その点が少し残念でした。

 

     ハリストス正教会            新蔵通り

 

    風情ある新橋辺り            小峰城の三重櫓

 

 ゆいま~る那須行きで、ぜひにと思っていたもうひとつは、作家久田恵さんにサインをもらうことでした。どこかゆいま~る那須に似た舞台背景の小説「ここが終の住処かもね」の本に、作者である久田恵さんのサインが欲しかったのです。

 運よく夕食の食堂で久田さんに会うことが出来ました。早速本とペンを持って、サインをお願いしました。すると、「この場では気持ちが落着かないので、持ち帰って改めて書きます」と言われました。そのような丁寧な応対に私は恐縮しました。翌日、久田さんはわざわざ私の居室まで来て下さり、サイン本を手渡してくれました。今では私の愛蔵本の1冊となっています。

        サイン本となりました!

 

 さて母親の具合ですが、ゆいま~る那須に滞在中も電話で何度か確かめました。私が不在中は弟が見ています。私が出発した後からは、苦しむようなことは無かったようです。

 那須から帰った後、それとなく様子を見てみると、夕食後に気持ち悪くなることが多いのに気づきました。そして、ひとつ思い当たることがありました。飲酒です。母はビールが好きで、夕飯時にはビールを楽しんでいました。母と私が350mlの缶ビールを1缶ずつ開けます。

 世間で騒がれている通り、このところ物価の値上がりが激しいです。そこで先月からビールを発泡酒に変えました。思い当たるというのは、この発泡酒に変えた頃から、夕食後の気持ち悪さが多くなったようなのです。そこで母にはまたビールを飲むようにしました。量も今までは200ml位飲んでいましたが、それよりも少なめにしてみました。すると気持ち悪さを訴えることが少なくなってきたのです。

 素人判断で、果たして発泡酒が原因かどうかは定かではありません。しかしもうすぐ97歳という年齢には、こうした微妙な違いが、案外左右するのかも知れません。素人なりにこうした小さな気づきも侮ることのないよう、心がけたいと思っています。

【第68回】時は金なり?

 新聞に目を通していたら、「昔懐かしいカラオケスナック」という文字が飛び込んできました。カラオケの好きな私は興味を持って、早速読んでみました。浅野素女さんという人の記事です。普段はフランス住まいだが、たまたま日本に滞在した時、友人にカラオケスナックに誘われたとのこと。友人はシャンソンを歌った。字幕に出る歌詞を見ている内に、浅野さんは改めてシャンソンの詩とフランス語の良さに気づいたという話です。

 成程そう言われてみると、カラオケの字幕には独特の良さがあります。私はシャンソンは唄えませんが、演歌やフォークは唄います。そして字幕に流れる歌詞に、「あぁこんな意味があったのか」と知ることがあります。何気なく聞いたり唄ったりしていては気づかない歌詞の意味と日本語の良さが、字幕の文字を通すことで分ることが、確かにあると思います。

 

 私もカラオケスナックに行きます。しかし月に1度くらいの割合です。その代わり家の中で、ひとりカラオケを小1時間ばかりします。パソコンのユーチューブを利用して、好きな歌手の演歌やフォークを選び、字幕を見ながら歌手の声になぞって唄います。習字でいうと、お手本の上に薄紙を敷き、そこに写る手本をなぞっていくのと似たようなやり方です。

 私にとってカラオケの一番良いところは、大きい声を出せることだと思っています。交友関係も少なく、日中のほとんどを家の中で過ごしている私は、あまり声を出すことがありません。年中顔を合わしている96歳の母親とは、そんなに喋ることもありません。ましてや歌を唄う時のような、大きい声では話しません。

 この大きい声を出すということが、精神衛生に良いようです。別に歌でなくても、大きい声であればいいのですが、そんな機会はありません。やはりカラオケだからこそ大声が出せるのです。また声を出すことは、のどと肺の筋トレになるし、誤嚥の防止にもなると言われています。

 

 次に良いのは、歌詞を覚えるということです。ある程度唄い続けると、自然と歌詞を覚えます。やがて字幕を見なくとも唄えるようになります。そうした曲が幾つも増えることで、呆け防止になるのではないかと思っています。暗記する、記憶することで、少しは頭の体操になるのではないでしょうか。私はそれを期待しています。

 次に良いのは、歌の世界に入ることで、ちょっと日常から離れる気分になることです。よく、歌は3分間のお芝居だと言われます。そこには自分とは全く違う人間模様が描かれています。3分間の歌の中で、自分とは違う感情、想いを味わうことが出来ます。この自分からちょっとでも離れられるということが、歌の持つ魅力です。

 

 ナチスアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、その過酷な状況の中でも生き残れた人は、身体の頑丈な人よりも、繊細な性質の人だったと聞いたことがあります。繊細な性質の人というのは、神に祈りを捧げる人であったり、ほんの僅かの休憩時間の間に、歌を唄い、そして聞いて楽しむ人々でした。収容所とは別の世界。神や宗教、芸術、音楽という、現実とは別の通路、チャンネルを持つことの出来た感受性の豊かさが、生きる力になったと言われています。本を読むことや映画、芝居を見ることにも通じることだと思います。

 カラオケからずいぶん大げさな話になってしまいましたが、とにかく日常にどっぷり浸かったままではいけないということです。狭い自分から脱け出して、ちょっと別な世界を覗いてみることです。読書や映画、音楽鑑賞、観劇という、どちらかというと受身な形と違って、自分で声を出して行動するという点で、また違った良さもあると思います。

 

 話は変わりますが、3月に大江健三郎さんと坂本龍一さんが亡くなりました。大江さんはノーベル文学賞を受けた作家です。私は何度かその作品にトライしてみましたが、どうしても理解できませんでした。私の頭には氏の文学は難しいのでした。坂本さんは世界的な作曲家と言われています。しかし演歌やフオーク好きな私には、その音楽を感受するだけの力がありませんでした。

 お二人は偉い方ですが、私には遠い人でした。しかし二人とも自然を愛し、原発に反対の声を上げる方でした。後始末も出来ず自然を汚して壊す、危険な原発に対し、先頭に立って「否!」と断言する力強い存在でした。名声の高いその方たちの発言はとても励みになりました。そうした方を続けて失ったことは、とても悲しく心細いことであります。

 

 そして死ということを考えさせられました。人間は死ぬ。いつか必ず死んでいくということです。そんなことは当たり前だと言われればそれまでですが、凡人の愚かさで、普段は忘れています。改めて自分を振り返ってみると、自分がお二人と余り年齢が違わないという事実に驚きました。私は今年の12月に76歳になります。坂本龍一さんは71歳で亡くなりました。あの美しい白髪から、もっと年長かと思っていましたが、私より5歳も年下なのでした。

 大江健三郎さんは、私よりひと回り上の88歳でした。しかし10年なんて直ぐに過ぎてしまいます。「いつか死ぬ」どころか、「いつ死ぬか分らない」のです。昔から「時は金なり」という言葉がありました。それに対して、そうではなく「時はいのちである」と、何かの本で読んだことがあります。

 若い頃はそれでもやはり、「時は金なり」だと思っていました。しかし老年の今になると分かります。本当に、「時はいのち」なのです。

【第67回】 わが家の厚化粧  

 昨27日の東京新聞朝刊に、「八重洲ブックセンター本店が今月末で営業を終える」という記事が、一面に大きく載っていました。このブックセンターには思い出があります。あれは10年ほど前のことです。三菱一号館美術館が古風なレンガ造りの建物だと聞いて、ぜひ見てみたいと思い見学に行ったのです。

 時間に余裕があったのでブックセンターに寄ってみました。すると「加島祥造墨彩画展」が開催されていました。私は伊那谷老子と呼ばれている加島氏のファンでした。実物の墨彩画を見るのは初めてでした。これは三菱一号館美術館どころではない。とてもいいものを見せてもらったと、喜びを噛みしめながら墨彩画を見ていました。

 そしてもっと驚いたことには、その会場に加島祥造ご本人が居られたのです。私は思わず握手を求めました。氏は苦笑しながら手を差しのべて下さいました。一生忘れられない思い出です。

 

閑話休題

 春です。桜満開の季節がやってきました。強制的にマスクをしなくてもよいことになり、とても開放的な気分です。今年は暖かくなったらぜひ実行しようと思っていることがありました。わが家の外壁塗装です。なにしろ築45年の建物です。古いです。よくここ迄もっているなというのが正直な気持ちです。

 建物で一番気になるのは耐震状態です。昭和56年5月31日以前に着工した木造2階建物などは耐震性が低いと言われています。当時は耐震に対する基準が、今より緩かったのです。昭和53年に建てたわが家はまさに該当します。私の住んでいる川崎市では、希望者に無料で耐震診断士を派遣し、耐震診断を実施しました。

 そこで13年前に耐震診断をしてもらいました。震度6強程度の地震に耐えられるかどうかを診るのです。結果は「倒壊する可能性がある」でした。市では相談員を選定し、わが家に来てくれました。どのような耐震化の方法があるかの説明です。

 本格的に耐震化をするとなると、かなり大掛かりな工事と高額な費用になります。比較的手頃な価格による方法もありますが、今ひとつ効果の程がはっきりしませんでした。相談員もこれと言った提案も示さず、何か中途半端な感じでそれっきりになってしまい、今日に至っています。

 

 屋根はコロニアルだったのを14年前にガルバリウムにしました。これも耐震性を考え、軽くて丈夫なものをと思って鋼板にしたのです。屋根は強い日光や風雨が直接当たるので傷みやすく、特に注意を要する部分と言われています。

 外壁は10年単位が塗り替えのサイクルだと聞いていました。なので、建ててから10年ごとに2回は塗装をしました。2回塗装したからでしょうか、それ以後は目立ったヒビも汚れもなく、いつの間にか今日まできてしまいました。つまり25年間なにも手入れをしませんでした。

 しかし改めて見てみると、さすがに25年間放置していただけあります。細かなヒビもあり汚いです。建物は近隣との釣合いというものがあります。そこで今年は外壁塗装をしようと思った次第です。

 

 そう思うと、途端にチラシや広告が目につくものです。いろいろな宣伝文句があり、どんな業者に頼んでいいか迷います。例えばこんなものがあります。

1.PR用に1年間、お宅の工事完成写真を使わせて頂くことを条件に、外壁塗装工事を通常価格の半額にて提供

2.外壁と屋根の塗装を同時契約することで特別価格

3.オープン○周年記念祭による大特価

 価格だけを比較すれば簡単です。安いのを選べばいいのです。しかしどんな材料を使って、どういう塗装工程になるのかといった詳しいことは、チラシや広告では分りません。そこで外壁塗装のことをネットで調べてみました。

それによると

1.塗料はシリコン樹脂が耐用年数の上で優れている。しかしこれにも3種類あって、「耐候型1種」が長持ちする。

2.塗装工事費用の大半は、職人の人件費や足場代なので、塗料は少々高くても良いものを選ぶこと。

3.塗装工事は3回塗り(下塗り、中塗り、上塗り)が基本。その時に中塗りまではきちんとするが、上塗りを適当に済ませてしまう手抜き工事をする業者がいる。原因は中塗りと上塗りに同色の塗料を使うことが多いためである。誠意ある業者は中塗りの色と上塗りの色を変えて、塗り残しのない工事をする。

などが注意点として書かれていました。素人には中々気づかない点です。

 

 築45年のわが家。果たしてあとどの位もつものか。外壁塗装の耐用年数がいくら長くても、家そのものが古いのです。その辺の兼ね合いを考えて、どんな工事をしてもらうかを決めたいと思います。あまり難しく考えないで、例えば老いた人がちょっと厚化粧をして、それなりの身なりを整えてみる。そんな感じでいいのではないかと思っています。

 さて、冒頭の加島祥造氏に握手してもらった話ですが、正確に何年に行ったかを確かめたくて日記を見てみました。2010年でした。13年前です。

 驚いたことに、場所が八重洲ブックセンター本店ではなく、丸の内丸善本店でした。全く記憶ほどいい加減なものはありません。と言うより、こうした思い違いや錯覚が、最近の自分に多いのです。我ながら情けなくなります。

 今後こうしたことは増えることはあっても、減ることはないでしょう。大事なことは記憶に頼らず、必ず再確認してみること。肝に銘じた次第です。

【第66回】奥深い「絶望名言」

 NHK放送番組に「ラジオ深夜便」があります。その中に「絶望名言」という月に1回のコーナーがあり、私はそれを聞くのを楽しみにしております。ただ午前4時から始まるので、そんな時間帯には起きていられない為、いつも録音しておいて昼間に聞いています。

 「絶望名言」とは、タイトルからして変わっています。どんなことかと言うと、古今東西の文学作品の中から絶望に寄り添う言葉を紹介し、生きるヒントを探そうというものです。

 なぜ絶望なのか。語り手は頭木弘樹さんという方です。大学3年の20歳のときに潰瘍性大腸炎を発病し、13年間の闘病生活を送った方です。

 そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、2011年に「絶望名人カフカの人生論」を編訳し、以後絶望にまつわる様々な本を執筆されているとのことです。

 頭木さんは言います。つらく苦しい時には、明るく楽しいものでなく、暗く悲しい人生物語に触れることで、生きる力になれたと。作家五木寛之氏も同じことを言っています。敗戦後、朝鮮半島から日本へ引き揚げてきて、つらく苦しい時代が続いた。そんな時には明るく楽しい音楽でなく、暗く悲しい歌を聞くことで、ずいぶん励まされたと語っていました。

 

 さて、この「絶望名言」番組の中で、珍しく「落語」が題材になったことがありました。進行担当者が「落語は楽しいもので、絶望とは関係ないのでは?」と疑問を投げかけました。頭木さんは、そうかも知れませんがと笑って、「芝浜」という噺を例に出しました。

※ここでちょっと「芝浜」という落語の荒筋を述べてみます。

 「時は江戸時代の話です。亭主が酒飲みで働かず、借金にまみれた生活をしている夫婦がいました。ある日亭主は芝浜で42両という大金を拾います。これからは贅沢三昧の暮らしが出来るというので、その晩は友人たちを招いて大盤振舞いをします。翌朝、酔いから覚めた亭主は細君に言われます。そんな大金を拾った事実はない。お前さんが寝ているときに見た夢に過ぎないのだと。

 初めは信じなかった亭主も、こんこんと聞かされる内に、夢だったのかと思い直します。借金の上に借金を重ねてしまい、にっちもさっちも行かなくなります。いっそ死んでしまおうかと嘆く亭主に細君は懇願します。今度こそは性根を入れ替えてください、地道に働いて暮らしを立て直すようにと頼みます。

 亭主は断酒をして一生懸命働き、3年後には小さな店を持つまでに立ち直ります。そして大晦日の晩、実はあなたが大金を拾ったのは本当だったと、細君は打ち明けるのでした。しかしあのまま横領したのでは大罪人になる。だから夢であると嘘をついたのだと。そして持ち主の分らなかった大金は、お上から戻ってここにありますと差し出すのでした。

 亭主は細君の真意が分り、嘘をついてくれたことに感謝します。新しい年を迎え、久しぶりに一杯どうかと細君は酒を用意します。3年振りに口にするその黄金色の液体。口元まで持ってきて、思わず亭主は言う。『よそう、また夢になるといけねぇ‥‥』」  古典落語の中でも名作と評される噺です。

 

 ここで頭木さんは提言します。幾らにっちもさっちも行かなくなったとしても、今までにさんざん借金の中で貧乏生活をしてきた夫婦である。例え一晩大盤振舞いをして借金が増えたからと言って、亭主が「いっそ死んでしまおうか」と言うのは少し変だとは思いませんか?と。

 進行担当者も「そう言われれば、そうですね」と応えました。頭木さんは、これは「落差」があったからだと言います。今までは貧乏生活だった。そこへ突然42両という大金(現在の金額にして800万円程)が舞い込んできた。亭主は大金持ちになったと有頂天になる。これからは贅沢三昧の生活が出来ると思った。ところが大金を拾ったのは夢の中の出来事だったとなる。再び貧乏生活へ舞い戻り。

  ここで一気に気持ちが落ち込んでしまったのである。天国から地獄への転落である。正に絶望そのもの。いっそ死んでしまいたいと思い込む。これが「落差」の恐ろしさなのだと。

 

 頭木さんは、ビクトール・フランクルの体験したナチス強制収容所での出来事も例に出しました。飢えと過酷な労働に苦しむ収容者の間で、クリスマスになったら解放されるという噂が流れました。人々は期待に胸を膨らませ、つらい毎日を生き抜き、クリスマスの来る日を指折り数えていました。そしてついにその日がやってきました。

 しかし、クリスマスがやってきても彼らは解放されることはありませんでした。その噂は嘘だったのです。すると、クリスマスの翌日に多くの人が命を落としたということです。これも「落差」によるものです。希望を失くし、生きる気力がいっぺんに消えてしまったのです。

 

 私も落語が好きです。昔録音しておいたものを聞いたり、テレビで見たりしています。「芝浜」も勿論知っています。しかし頭木さんのように、登場人物の一言である「いっそ死んでしまおうか」というセリフから、落差に落ち込む気持ちまでを考えたことはありませんでした。

 頭木さんは20歳のときから13年間というもの、殆ど寝たきりの闘病生活を送ったといいます。時には絶望の淵に立たされたこともあったでしょう。病床の中で絶えず生と死について悩み苦しんできたからこそ、そうした感覚が研ぎ澄まされてきたのだと思います。

 古今東西の文学作品の中から、頭木さんだからこそ読み取れた、絶望と生きるヒントを見出してきたのです。これからもこうした独特な視点で人生を解説する、頭木さんの奥深い「絶望名言」に学びたいと思います。

 そうそう、つい先日は「紫式部」が題材でした。彼女が書いた日記を取り上げるそうです。録音してあるので、昼食後にでもじっくり聞こうと思っています。