木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第42回】星野富弘さんが出会った人

■生きる意欲と出会い

 33回目のブログで星野富弘さんのことを書きました。中学校体育教師だった星野さんは、クラブ活動指導中に頸髄損傷という大怪我をして、肩から下の自由を失う障害者となりました。死生観の研究者である大町公氏(奈良大学名誉教授)は、星野さんが〈生きる意欲〉を取り戻す上で大きかったものは、「自己表現手段の獲得」と「人との出会い」であったと言います。星野さんにとっての自己表現手段は、口に筆をくわえて字を書いたり絵を描くことでした。33回目のブログでそのことを記しました。

 では次に、「人との出会い」とはどんなものだったのでしょうか。今回はそのことを、星野さんの手記を通してまとめてみたいと思います。

 

■もうひとりの母

 重度の障害を負った星野さんにとって、生きる意欲の上での「出会いの人」は2人いました。ひとりは、星野さんの母親です。

 毎日顔を合わしている、自分を産んだ母親に対して「出会い」と言うのは、少し違和感を覚えるかも知れません。しかし私は敢えて「出会い」と考えたいのです。

 星野さんの母親は、病室のベッドと窓の間の1畳にも満たない狭い所で寝起きしながら、9年間というもの星野さんの手足となって看病を続けました。他の患者さんの付き添いの人と、やっと気心が通じ仲良くなれたと思う頃には、相手はもう退院になってしまい、母親だけが取り残され、また見ず知らずの人を迎えては、最初からやり直さなければならない。そんな繰り返しの連続なのでした。しかし星野さんの母親は、そうすることが当然のことであり、当たり前のこととして看病をしてきました。

 星野さんの手記『愛、深き淵より』(新版 学習研究社)には、数カ所「母の回想」欄があります。そこには、その時々の母親としての思いが語られており、中にこんな言葉があります。

 

 「もし自分がたおれたら、富弘がどうなるかと思うと弱音など吐いておれません。この子のために一生そいとげてやらねば、この子の喜ぶことならどんなことをしてでもやってやらねば。この一念で共に歩いてきたのですが‥‥」

 大町教授は、この文中で「そいとげる」との表現になったのは、当時母親は、息子がよもや自分よりも長く生きるとは思わなかったからだろうと推測しています。

 大けがをして、思いがけなく自分のもとに戻ってきた息子を、その重度の障害という現実とともに引き受け、精一杯看病する。なお可能な範囲で、わが子のできる限りの幸せを願うのでした。

 星野さんは、「もし私がけがをしなければ、この愛に満ちた母に気づくことなく、私は母をうす汚れたひとりの百姓の女としてしかみられないままに、一生を高慢な気持ちで過ごしてしまう、不幸な人間になってしまったかもしれなかった」と述懐しています。

 自分を無にして、献身的に尽くす母親の姿を通し、星野さんは改めて母親の生き方、愛情に目覚め、生きる意欲をもらったのです。病院生活がなければ知らなかった、もうひとりの母の姿に出会ったのです。

 

■信仰を共に

 星野さんにとっての、大切な出会いのもう1人は、渡辺さんという女性です。渡辺さんは、星野さんが入院してから2年半ほど経った頃(昭和48年1月)、キリスト教会の紹介で、星野親子の手助けに来た人です。手記『愛、深き淵より』の中に、渡辺さんが初めて病室を訪ねた様子が次のように書かれています。

 「私は前橋キリスト教会に通っている渡辺と申します。舟喜牧師からいつもお話をきいています」 母は買い物に出かけていて留守だったので、かわりに彼女は私に蜜柑を食べさせてくれると、まもなく帰って行った。

 彼女はその日から土曜日ごとに、毎週欠かさず来てくれるようになり、それがいつの間にか週に2度になり、とうとう3度になってしまった。私が熱を出した時など、会社の帰りに毎日立ち寄ってくれて、病室には入らず、部屋の窓明かりを遠くからみつめながら祈ってくれた人だった。

 

 昭和49年12月 星野さんは、キリスト教の洗礼を受けました。病室で行われたのですが、たくさんの人が集まってくれました。その中に渡辺さんの姿もありました。皆のうしろの方にいたそうです。その時の彼女について、星野さんはこう述べています。

 「彼女は2年も前から通いつめて、食べ物や身の回りの細かいことに気を配ってくれては、私と母を自分の手足をつかって助けてくれた。私の前で聖書の話はあまりしなかったが、その眼差しに、いつも深い祈りが込められているのを感じた」

 控え目でおとなしいが、芯のつよそうな女性の姿が浮かんできます。

 

 また「ランの花」にまつわる、こんなエピソードもあります。それは、星野さんが西尾さんという人からランの花をお見舞いにもらったことから語られています。

 初めて見るランの美しさに、星野さんはそのランを絵に描き、花をもらったお礼として、その絵を西尾さんにあげる積りでいました。ところが、渡辺さんが余りにもその絵を褒めるものだから、「そんなんでよかったら、渡辺さんにやるよ」と言ってしまったのです。

 渡辺さんは最初のうち、ランの絵を自分の机の前にセロテープでとめておいたのですが、次第にその絵が大切に思えてきて立派な額に入れるようになったという話です。ふたりが次第に惹かれあう姿が浮かんできます。

 

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 そしてついに来るべき時が来ました。その模様は、手記『かぎりなくやさしい花々』(偕成社)に、次のように書かれています。

 星野さんは渡辺さんに車椅子を押してもらって、昼下がりの静かな外来病棟に来ました。窓から見えるイチョウの葉が、黄色く色づいている晩秋です。星野さんが渡辺さんに聞きます。「銀杏の実を食べると、身体にいいんだってね‥‥。どこの薬になるか知ってる?」 渡辺さんは「さあ」と考えていますが、中々答えが出てきません。 「胃腸(イチョウ)だそうです」 「なんだ、なぞなぞだったの。真剣に考えていたのに‥‥。」

 そんなことから子供の頃の話になり、小学生時代のことや、将来何になりたかったか等を話します。渡辺さんは家にテレビがないのに、近所でプロレスを見て、テレビのモニターに応募してしまったことなどを話します。星野さんもよその家のテレビの前で、プロレスを見て大歓声をあげたことを思い出します。

 渡辺さんがとても身近に感じられたと書かれています。以下、これからのふたりの会話は、とても大切な箇所なので、原文のまま転記します。

 「渡辺さん、‥‥結婚しようか‥‥。」 車椅子のうしろで、渡辺さんの顔は見えませんでしたが、私の口から、思わずそんな言葉がもれていました。

 「‥‥‥。」 世界中から、急に音がなくなってしまったように、静かになりました。窓の外は、銀杏の葉がひらひらと散っています。空に張り詰めてあった黄色いステンドグラスが、粉々にくだけて、地上に降っているかのようでした。

 「わたしも考えていたんだけれど、いまはまだ、はっきりと返事は‥‥。でも、そのことを神さまにいのっているわ。ふたりで祈りましょう‥‥。」

 渡辺さんは、車椅子のうしろから、手のひらで私の顔を包むように抱いて言いました。黄色いイチョウの葉が、蝶々のように風に舞い上がり、夕日を浴びてきらきらと輝いていました。

 

 とても感動的な場面です。2人が互いにどんなに想い合っていたか。今まで築き上げてきた交流が静かに最高潮に達したのです。

 星野さんは手記の中で、次のように綴ったことがありました。

 「私は今まで死にたいと思った事が何度もあった。けがをした当時は、なんとしても助かりたいと思ったのに、人工呼吸器がとれ、助かる見込みが出てきたら、今度は死にたいと思うようになってしまった。

 動くことが出来ず、ただ上を向いて寝ているだけで、口から食べ物を入れてもらい、尻から出すだけの、それも自分の力で出すことすら出来ない、つまった土管みたいな人間が、はたして生きていてよいのか。女性を好きになっても抱くこともできないだろう。それも頭からはなれない深刻な苦しみだった」

 

 ひとりの若い男性として当然の悩みでした。そうした星野さんの前に現われたのが渡辺さんでした。星野さんがキリスト教の洗礼を受ける決意をしたのも、渡辺さんの存在が大きかったのではないでしょうか。ふたりは信仰を共にし、敬い、惹かれ合っていったのです。

 「結婚してください」ではなく、「結婚しょうか」という言葉が、星野さんの口から自然と出たのです。星野さんをしてこう言わしめた渡辺さんとの出会いが、どんなに生きる意欲としての原動力になったか、計り知れないものがあると思います。

 「結婚しょうか」 この言葉を口にして、互いの想いを確認したその日から、星野さんの生きる姿勢は、大きく変わってきたと思います。

 

 昭和56年4月29日 前橋キリスト教会の礼拝堂で、星野さんと渡辺さんの結婚式が行なわれました。渡辺さんがはじめて病室を訪れ、蜜柑を食べさせてくれた日から、8年が経っていました。渡辺さんの家族の方も、牧師も、その長い月日の重なりをとても大切に考え、ふたりが聖書の言葉を支えとしていることに、ひとすじの希望の光を見出してくれたのでした。

 

 妻として渡辺さんを迎えた星野さんの、崇高とも言える愛妻詩があります。

   結婚ゆび輪はいらないといった

   朝、顔を洗うとき

   私の顔を、きずつけないように

   体を持ち上げるとき

   私が痛くないように

   結婚ゆび輪はいらないといった

 

   今、レースのカーテンをつきぬけてくる

   朝陽の中で

   私の許に来たあなたが

   洗面器から冷たい水をすくっている

   その十本の指先から

   金よりも 銀よりも

   美しい雫が落ちている