木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第33回】 1個のチューリップハットから

星野富弘さんの〈生きる意欲〉

 このブログの第11回目で星野富弘さんの詩画展を見に行ったことを綴りました。星野さんは大学を卒業して、中学校体育教師として赴任したばかりの24歳の時、体操クラブ活動の指導中に頸椎損傷という大怪我をしてしまいました。

 病院に入院して3年近くになると、星野さんの症状はそれなりに安定してきました。そして確実に分かったことがあります。肩から下の自由を失いました。手足が動かせません。一人で食事が出来ません。排泄もできません。顔が痒くても掻くこともできないのです。

 そうした中にあって、星野さんを勇気づけ希望をもたらしたのは、口に筆をくわえて字を書いたり絵を書くことでした。死生観の研究者である大町公氏(奈良大学名誉教授)は、星野さんが絶望の状況から立ち直る〈生きる意欲〉に注目します。

 『星野さんは障害者となった自分をしっかりと受容された。受容するためには、自己をみつめることが必要である。〈自分を見つめる〉から障害の〈受容〉へ。しかし、その間に、おのずから〈生きる意欲〉が湧き出てくることが必要なのではないか。〈生きる意欲〉の芽生えなしに、〈自分を見つめる〉ことも、〈受容〉することも可能なのかどうか』

 そして、この〈生きる意欲〉を取り戻す上で大きなものは、人との出会いと自己表現手段の獲得であったと言います。

 星野さん自身は、口に筆をくわえて文字が書けたことを、後年こう回想しています。『口に筆をくわえて字が書ける事を知った。絵も描けるようになった!私はやっと自分が生きてゆけそうな気持ちになった。絶望の淵からなんとか這い上がれそうに思えた……』

 口に筆をくわえて文字を書くことが、星野さんにとって生きる上でどんなに貴重なことであったか。今回は星野さんの手記を通して、そのことを具体的に見てみたいと思います。

 

■少年についた嘘 

 昭和47年夏。怪我をして病院に担ぎ込まれてから2年が経ちました。以前同じ病室に高久君という中学生がいました。今は重い病気で東京の病院に移っています。そのお母さんが訪ねてきて、高久君が皆に寄せ書きをして貰いたいと言うので、愛用のチューリップハットを持ってきました。

 皆は思い思いに、「がんばれ」とか「忍耐」「闘志」などと励ましの言葉を書きました。いよいよ星野さんのところにその帽子が回って来ました。

 しかし星野さんは字が書けません。くやしいけれどどうにもなりません。高久君とはとても仲が良かった。もし、自分が書いた文字が帽子のどこかにあるのを見つけたら、どんなにか喜んでくれることだろう。病床にある者同士のささやかな励まし合いになる。

 「よしッ、高久君を驚かしてみたい、うんと喜ばしてみたい」その思いに突き動かされ、今までやってみたこともない、サインペンを口にくわえることをしてみたのです。その時の状況を星野さんは次のように記しています。

 『母が帽子を私の頭の上におそるおそる広げた。私は全身の力を首に集中して頭を持ち上げた。ペン先がわずか帽子に触れ、その白い生地に、ゴマ粒ほどの黒い点が付いた。あとはそれを動かして線状にのばして文字にすればよいのだが、私に出来たのはかすかながらも黒い点をひとつ、付けるのが限界だった。首を持ち上げただけで私の全身の力はすべて出つくしてしまったのである』

 結局、星野さんはサインペンをくわえ、母親が帽子を上から押し付けて、左右に少しずつ動かしながら、「富」という字にしました。最初の黒い点はうまくつないで「お」にしたのです。このようにして、サインペンを歯にはさんだまま、全く首を動かさずに、「お富」という茶目っ気のある字になったのです。

 

 何日かが経って、高久君から電話がかかってきました。高久君は「お富」という字を、星野さん自身が書いたものと信じきり、大感激していました。あまり喜ぶものだから、「俺はサインペンをただくわえていただけだったんだよ」とはどうしても言えませんでした。

 高久君についてしまった嘘を、なんとか本当のものにしたい。また今まで手紙で励ましてくれた沢山の方々に、ほんの数行でもいい、自分の書いた字でお礼が言いたい。「口で字を書きたい!」と痛烈に思うようになったのです。

 母親に頼んで、サインペンとスケッチブックを買って来てもらいました。スケッチブックのような固い紙の方が、母親に持ってもらうのに具合がいいと思ったからです。

 しかしただの一字はおろか、一本の線でさえ書けませんでした。サインペンをくわえた頭をかなり持ち上げた積りでも、実際は枕から2、3ミリしか頭を浮かせることが出来ず、ましてその頭を動かすことなど到底不可能なのでした。

 でもあきらめたくはなかった。口で字を書く事をあきらめるのは、唯ひとつの望みを捨てることであり、生きることをあきらめるような気がしたからなのです。

 

看護学生のひと言で 

 季節はいつしか冬になっていました。看護学生が実習に来て、篠原さんという人が星野さんのお世話をすることになりました。とても熱心な女学生で、片時も息子の傍を離れられなかった母親は、とても助かりました。

 「遠慮なく、なんでも言いつけてくださいね」そう言いながら、星野さんのからだを横向きにするのでした。背中の床ずれを防ぐため、日に2,3度はからだを横向きにしなければなりません。ただそのままだと倒れてしまうので、布団をまるめて身体の前後につっかえ棒のようにして、支えるのです。

 その日も、いつものように身体を横向きにした時です。「その姿勢で字を書いたらどうでしょう」と篠原さんが提案しました。

 横向きだと頭を持ち上げる必要がありません。くわえたサインペンの先すれすれにスケッチブックを立て、頭を少し前にずらせば、ペンの先が紙につくのです。

 くわえたペン先もスケッチブックを握っている篠原さんの腕もぶるぶると震えていました。でも書けたのです。かたかなの「ア」です。ペンに巻きつけて、くわえていたガーゼは唾液でぐっしょり濡れ、あまり力をいれていたので、歯茎からは少し血が出て、ガーゼに染みました。

 次は「イ」を書きました。黒糸の切れ端のようにもつれた文字が、だんだん増えていきました。目が回ってきました。慣れないものをくわえたからか、吐き気もしてきました。しかし嬉しかった。うれしくて、うれしくて、‥‥やめることはできなかった。

 横からのぞきこんでいた母親も、星野さんと同じように歯をくいしばり、ひたいに汗をにじませていました。小学校へ入る少し前、はじめて自分の名前が書けるようになった時のように、嬉しくてうれしくて堪りませんでした。

 目の前が、パァーツと明るくなりました。高久君についた嘘も許してもらえるような気がしました。その夜は高熱が出ました。しかし、明日が楽しみでした。あすになればまた字が書ける。あすはもっと落ち着いて、ゆっくり書いてみよう。

 

 星野さんは、明日が来るのを待ち望むようになったのです。生きる目的ができたのです。星野さんは、その決意を次のように記しています。

 『私は高校1年から大学を卒業するまで、いやこの身体が動かなくなる瞬間まで、器械体操に親しんできた。床、吊り輪、鞍馬、跳馬、平行棒、鉄棒と、大体の技はできるようになっていた。最初不可能とみえる技がなぜできるようになったかというと、やさしい技を繰り返す基礎からやり始めたからである。

 口で字を書く事だって、それと同じではないかと思った。小さな地味な基礎を積み重ねていけば、器械体操の華麗な技のように、口でだってきっと美しい文字が書けるようになれると思った。何年かかってもよい。それをやることが、器械体操をやってきたものとして、器械体操で怪我をしてしまったものとして、体育の教師として、私に与えられた義務であるような気がした。』

 

 昭和48年3月 字を書き始めてから4カ月が経ちました。漢字も書けるようになり、念願の手紙も書けるようになりました。ひとつの手紙に1週間もかかってしまうこともありましたが、受け取った人たちは想像以上に喜んでくれました。

 病院から一歩も出られない星野さんにとっては、文字というより、自分の分身のような気がして、それが汽車に乗り、遠いところへ出かけて行くのだという思いで、長い間書き続けると熱も出ましたが、つらいとは思いませんでした。

 大町教授は、柳田邦男氏の言葉を引用しています。

 「人間は、病気によってであれ障害によってであれ、身体的な行動力を失えば失うほど、精神生活の比重が大きくなる。精神生活において決定的に重要なのは、自己表現手段の獲得である」と。

 このことは、例えばALS(筋萎縮性側索硬化症)という、筋肉が萎縮して運動機能障害が起こった方が、まばたきの動きでパソコンを操作して、画面に文字を出している場面をテレビなどで見ますが、その真剣な表情から、いかに自分の意思を伝えることが大切かが分かります。

 

 群馬県みどり市東町に富弘美術館があります。私は2度ほど訪ねましたが、森に囲まれた開放的な建物です。そこには高久君の寄せ書きチューリップハットが展示されています。形もくずれ薄汚れてしまった古い帽子ですが、これを切っ掛けに星野さんの新しい人生が始まったのだと思うと、厳粛な思いと共に何か希望に満ちた明るい気持ちにさせられます。

 

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       森に囲まれた富弘美術館