木もれ陽ベンチ

神奈川県川崎市在住の70代後半男性。栃木県那須町の高齢者住宅「ゆいま~る那須」を契約。90代後半の母の介護があり完全移住ではありません。現在は別荘気分で使用しています。

【第29回】100分de名著「夜と霧」を見て 

■すべてボランティアの力で

 ゆいま~る那須の近く、福島県白河市白坂にアウシュヴィッツ平和博物館があります。ナチス強制収容所は何カ所かあり、計800万人ものユダヤ人が殺されたとも言われています。アウシュヴィッツ強制収容所はその中のひとつです。飢えと寒さと過酷な重労働の中、役に立たなくなれば即座に殺されてしまう収容所。

 私は、アンネ・フランクの『アンネの日記』などで、強制収容される前の屋根裏部屋生活を通し、その恐ろしさを知りました。白河市白坂のアウシュヴィッツ平和博物館は、そうした非道なことが再び起きない願いを込めて、すべてボランティアの力で作られたと聞きました。そこには、ポーランド国立アウシュヴィッツ博物館から提供された関連資料、犠牲者の遺品、記録写真などが展示されています。入場券の裏には次の言葉が記されています。「民族差別と戦争の真実を知り、いのちと平和の尊さを学び伝えるための、市民の手による博物館をめざしています」

 以前は別な場所にありましたが、そこを立ち退かなければならなくなった時、ここ白坂の土地を提供されて移築したとのことです。またその一角には、アンネ・フランクの展示棟もありました。世界各国版の『アンネの日記』、隠れ屋の模型、関連写真などが展示されています。

 およそ観光気分で来る場所ではありません。東日本大震災の後、ここを見学する人が以前より増えてきたと言います。人は、明るく楽しいものに目が向きます。反対に、暗く悲惨なものからは、できるだけ遠ざかろうとします。しかし、時には、暗く悲惨なものに目を背けるのでなく、もっと知りたいと思う時もあります。人はそうした状況に立たされた時、一体どうなるのだろう。何を感じ考えるのだろうかと。

 

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           平和博物館のパンフレット

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■夜と霧

 以前、NHKテレビ番組で《100分de名著「夜と霧」》を放映していました。『夜と霧』(みすず書房)は、ナチス強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルが、その極限状況の中で、人がどう生きてきたかを記した書物です。その番組をビデオで久しぶりに見ましたのでまとめてみました。

 ヴィクトール・フランクルは、1905年にウイーンに生まれました。精神科医として活躍していた37歳の時(1942年)、強制収容所に送られました。フランクルは、強制収容所に送られてきた時、自分自身にこう言い聞かせたと言います。

『お前はこれまで、人生には意味があると語ってきた。それはどんな状況でも、失われないと言ってきたではないか。さあ、ヴィクトール、自分でそれを証明する番だ』

 まさに、今まで自分が主張してきた、「どんな人生にも生きる意味がある」ことを、本当かどうか試される時がきたのです。その現場に、自ら身を置く事になったのです。彼は収容所では「119104」という番号で呼ばれました。

 

■どんな人たちが生き延びたか

 収容所生活の中の飢えや寒さ、過酷な重労働の中で、いつしか無感情・無感動になっていく人たちがいた。監視役の理不尽な暴力を見ても、唯眺めているだけ。朝、仲間が死んでいても、何の感情も起きない。当たり前の光景として映り、もはや人の心を動かすことができなくなるアパシーという状態になっていく。彼らはやがて、点呼の時に起き上がれず、食料と交換できる貴重なタバコを吸い尽くす者もいて、そのまま死んでいきました。

「クリスマスが来たら、解放される」という噂が流れた時がありました。しかし、クリスマスの日が来ても、解放されることはありませんでした。翌日、多くの人が命を落としたと言います。解放されるという「希望」を無くし、死んだのです。

 一方、「クリスマスが来たら、解放される」という目の前の事ではなく、いつか自分のことを待っている“時間”がある。「未来」という可能性を信じることが出来た人が、生き延びることが出来たのです。

 また身体の頑丈な人よりも、繊細な性質の人が、収容所生活をよりよく耐え得ることが出来ました。繊細な性質の人というのは、神に祈りを捧げる人であったり、ほんのわずかの休憩時間の間に、歌を唄い、そして聞いて楽しむ人々でした。

 収容所とは別の世界。神や宗教、芸術、音楽という、現実とは別の通路、チャンネルを持つことの出来た感受性の豊かさが、生きる力になったのです。

 

■3つの価値

 フランクルは、人が自分の運命に直面しながら、自分の生きる意味を見出していくその仕方を、3つの価値に分類して説明しています。

①  創造価値

 自分が情熱を傾けてなしていく、仕事を通して実現していく価値のこと。分かりやすく言えば芸術作品や研究論文などのこと。しかし、フランクルは、この創造価値は決して仕事の大小ではないと言います。例えば洋服の販売員が、お客さまに似合った服を選んであげて、そのお客が大変気に入って感動した。そのことが自分の喜びにもなったというのも創造価値なのです。

 フランクルは収容所の中にあっても、いつかここを抜け出て自由の身となり、大衆の前で講演している自分の姿を頭の中で描いていたと言います。このことも、フランクルにとっては、その時点で出来得る、精一杯の創造価値ではなかったかと思います。

②  体験価値

 例えば、美しい自然や芸術作品などに触れて、心ふるわし理屈抜きに感動するのが体験価値です。またそればかりでなく、次の様なことも含まれます。

 フランクルは収容所の中で、別れ別れになった妻を思い出し、在りし日の楽しいふれ合いを、現に今妻がここにいるかの如くに、幻の妻と語り合い笑いあった。それは彼を励まし、勇気づけてくれた。本当に愛し合った思い出は、単に記憶にとどまらず、正にいまそこに相手がいるが如く、生き生きと体験価値として存在するのである。たった9カ月しか一緒に暮らせなかった妻であったが、『彼女の眼差しは、いまや昇りつつある太陽よりも、もっと私を照らすのだった』とフランクルはその体験を語っています。

③  態度価値

 創造価値は能動的です。体験価値は受動的と言っていいでしょう。では創造も体験も出来なくなってしまった場合はどうなのか。

 フランクルは、人間はどんな状態におかれようとも、その状況に対してどう向き合うか、ある態度を取ることは出来ると言っています。

 収容所のバラックの中で、こちらでは優しい言葉を、あちらでは最後のパンの一片を仲間に与えて通っていく人間の姿を、フランクルは目にします。死んだ仲間から、ものを奪う人間がいる反面、自分のわずかなパンを仲間に与える人もいたのです。状況がひどくなったら仕方ないのだ。皆悪くなるのだということに、フランクルは「否!」と言います。

 与えられた事態に対して、どういう態度を取るかは、誰にも奪うことの出来ない、人間最後の自由である。この態度価値が存在するということが、人生がどんな時にも意味を失わない、どんな時にあっても人生には意味があると言える、最終的な根拠であると述べています。

 

 1945年4月、フランクルは解放されました。しかし、両親と妻そして2人の子供が、収容所で殺された事を知りました。翌1946年、「それでも人生にイエスと言う」という講演を行いました。この言葉は、強制収容所の仲間たちの間で歌われていた歌詞の一部ということです。どんな人生にも意味があると説き続けてきたフランクルに、ぴったりのタイトルでした。

42歳で再婚したフランクルは子供にも恵まれ、1997年に92歳で亡くなるまで、とても明るく、ユーモアのある、あたたかい家庭を築いてきたということです。